迷    妄   <系図を見る>

その1

 倭姫王の葬儀は、
先の帝、中大兄皇子の大后
(おおきさき)という地位の重みに似つかわしくないほど、
簡素に、ひっそりと行われた。

 皇女が最初に人の葬儀に立ち会ったのは、母の大田皇女が亡くなった時だったが、
そのときの皇女は幼すぎて、母の葬儀を全く憶えていなかった。
大田皇女亡き後に慈しんでくれた祖父、中大兄皇子の葬儀も、
悲しみのあまり夢うつつの様な気持ちで、重臣たちが次々と述べる偲言
(しのびごと)をただ聞いていた。

しかし、今度の葬儀では不思議なほどに頭の奥深くが冴えに冴えていた。
人々の偲言や挽歌
(ばんか)を一つ残らず聞き、
その声の途切れた僅かな時間に、自分の感情を見つめ、整理しようとした。

倭姫王に仕えていた女人たちは、生前の王の姿が思い出されて
悲しい、としきりに泣いた。

しかし、皇女には生前の姿というよりも、
肉体を捨てた王が遥か西の果てを目指して往生してゆく姿が見えるようだった。
そして自分も倭姫王が行こうとするところへ吸込まれていく様な心地だった。

これを、悲しみを通り越した静寂だというのか。

白い喪服を着た人の群に押し潰されそうになりながら、皇女は一人考えた。
 皇女は都を発った大津皇子にもこの訃報を知らせるよう頼んだが、それは流石に無理だった。
 報せが届けられないと聞くと、皇女は急に大津皇子が気掛かりでたまらなくなった。
 今すぐ弟に逢いたい。
できるものなら、倭姫王と大津皇子と三人で、もう一度、近江の湖を散歩したかった。

「皇女さま。宮に戻りましょう」
 女人の声に皇女は我にかえった。

「そうですね」
 皇女は通り一遍に答えたが、ふと外を見ると、激しい雨が降っていた。

「まあ、厄介なこと。雨が降ってまいりました」
 女人も降り荒ぶ雨に気付いたようだ。

皇女は輿
(こし)で来たが、輿を止めているところまでにも、随分と距離があった。
 随行した女人たちは、どうしたものかと途方にくれている。

「仕方がありません。輿を止めたところまでまいりましょう」
 皇女は言った。

雨はいっそう激しさを増し、宮に着くころにはずぶ濡れになっていた。
 女人たちは慌てて皇女の衣装を取り替え、濡れた髪を乾かした。

しかし、輿にゆられて外出することさえ稀だった皇女の身に雨は相当応えたらしく、
皇女は生まれて初めて高熱を出して寝込んだ。

幸い大した病ではなかったらしく、
一週間くらいで熱は下がったが、それからが苦難の日々だった。
 皇女は倭姫王のいない宮で、ただ一人で弟を待たねばならなかった。

春が過ぎて夏が来た。

まだ弟はかえってこないし、父の大海人皇子からは何の連絡もない。
こんなことならやはり一緒に行けばよかった、と皇女は一瞬、気弱な考えに陥った。

「大津はどうしているのです? どうして何の連絡もないのです」
 女人たちが知っているはずがないと思いつつも、皇女は何度も尋ねた。

「さあ、いかがでしょうねえ…。
私たちも気にしているのですが、未だ何の連絡もないのでございます」
 何度尋ねても、女人の返答は決まっていた。

「あの行列はどなたかしら」
 皇女は宮のすぐ側を通り過ぎていく行列に目を止めた。
出勤する役人にしては規模が大きかったし、二つの女輿が皇女の目を引いた。

「はて、なんでしょう。どなたかが寺社詣でにでも行かれるのでしょうか」
 女人は訝しげにそう言うと、ちょっと聞いてまいります、と断り、皇女の側を離れた。

女人が持ってきたのは、とんでもない答えだった。
 大友皇子の妃となっていた十市皇女が、
母の額田王とともに、山背国
(やましろのくに)へ向かっているというのだ。
山背には十市皇女と大友皇子の長男、葛野王
(かどののおうきみ)がいるというが、
皇族の妃が都を離れるという話を皇女は聞いたことがなかった。

 それから一時もたたない内に、
皇女にも、都を出て大海人皇子さまの所へ向かわれますように、との通達がきた。
 皇女は近江の宮を去り難かったが、
女人たちが早く、早くと急かすので、身の回りのものをまとめて、馬にくくりつけるよう命じた。

それから、髪に油をさして、舎人たちの用意した輿に乗り込んだ。

「皇女さま。
大津皇子さまは、草壁皇子さまや刑部皇子
(おさかべのみこ)さま、
鵜野皇女さまとともに桑名
(くわな)という地にいるそうです。
桑名はこの近江から然程
(さほど)遠くないそうですが、
急いでこられよ、とのことなので少々輿をはやめます」
 皇女は女人の言葉にわずかな希望を持った。

大津皇子に逢えるかもしれない。

女人はその後にも何か話していたが、皇女の耳にはほとんど入っていなかった。
 皇女はつかの間喜びに酔った。しかし、それはほんのつかの間であった。


その2
                           <系図を見る>

 皇女は途中、大江皇女(おおえのひめみこ)の行列にあった。
 大江皇女は、皇女たちの父、大海人皇子の妃のひとりである。
 大江皇女にも、都を離れるように、との通達が来たとのだという。
弟の大津皇子を大海人皇子のもとへ遣っている自分はともかく、
妃とはいえ大江皇女まで都を離れることはないのではないか、と皇女は思った。
 しかも、大江皇女は身重の身体で気分もすぐれず、
ここにくるまでに何度ももどしたという。

皇女は大江皇女にお身体はいかがですか、と声をかけ、
二言三言言葉を交わして別れたが、
大海人皇子の妃とはいえ中大兄皇子の娘でもある身重の大江皇女まで都を脱出させたということにただならぬものを感じた。

自分が近江を離れて向かったところで大津皇子はもう無事でないかもしれない。
得体のしれない不安が皇女を襲った。

「皇女さま。この辺りで少し休んでいかれますか?」
 女人の声とともに輿が止まった。
 しかし、不安でたまらない皇女は、一刻も早く大津皇子に逢いたく、
「いいえ、かまいません。行ける所まで行きましょう。」
 と言った。

間もなく、山道にさしかかった。
滅多に人が通ることもない山道は、流石によく揺れた。
 皇女はだんだんに気分が悪くなってきた。
 こんな所で苦しいなどと言っては、
女人たちが戸惑うと思い我慢して輿に乗り続けたが、
曲がり道になって、急に方向を変えるときの横揺れがたまらなかった。
胸の悪さと闘いながら漸く日没を迎えたが、
輿を降りる頃、皇女の右手は爪跡が無数にできて真っ赤に腫れていた。

その夜も皇女は大津皇子と逢えなかった。
 桑名まで一日で行くことはやはり無理だったようである。
皇女はその夜は用意された山荘で寝んだが、
次の日の夕方には、大津皇子のいる桑名に着いた。

女人に先触れをさせた皇女は大津皇子のいる館に入った。
大海人皇子は随分前にこの館を出たらしく、
今は大津皇子と草壁皇子、刑部皇子が鵜野皇女と一緒に暮らしているとのことだった。
 皇女は一刻でも早く大津皇子に逢いたかったが、
大津皇子の世話をしていたという鵜野皇女のほうに、
先に挨拶するのが礼儀だと思い、鵜野皇女をさがした。

途中、刑部皇子
(おさかべのみこ)に会った。
 刑部皇子は、異母姉にあたる皇女に丁寧に挨拶した。
卑母(ひぼ)の生れである彼は皇族腹の皇女に礼を欠かぬようにと、
懸命に言葉を探して、深々と頭を下げて挨拶してくる。

皇女は不意に刑部皇子をあわれに思った。
 父の大海人皇子がいない間、
釆女の息子である彼は鵜野皇女のもとで、草壁皇子にひけ目を感じることもあっただろう。
都にいる母を慕って泣き明かしたこともあるだろう。

皇女は、鵜野皇女は用事があって出掛け、
大津皇子は外で剣術の稽古をしていると聞き、
刑部皇子とふたり、帰りを待つことにした。

暫くして、鵜野皇女が帰ってきた。
 皇女は、鵜野皇女に向かって、お出掛けになったと聞き、
お帰りを待っていましたと言い、挨拶をした。

鵜野皇女は、
「長い道のりをご苦労でした。大津皇子も姉との再会を喜びましょう」
 と言ったが、皇女を見る目はぞっとするほど冷ややかだった。
皇女は気のせいかもしれないが、
鵜野皇女に睨まれているような気がして、暫くの間ものも言えなかった。
 蒸し蒸しとした空気が皇女を包み、じっとしていても暑い。
 皇女は額の汗を指先で拭った。

大津皇子の世話をしていただきありがとうございました、
と言おうとしたとき、鵜野皇女は不意に口を開いた。

「大友皇子が自尽しました」
 鵜野皇女の言葉が一瞬、皇女には理解できなかった。
「これでわが夫、大海人皇子さまの勝利は確実になりましたよ」
 鵜野皇女は、凍てついている皇女をあざ笑うように続けた。
「あなただって父君の勝利がうれしいでしょう」
 鵜野皇女は、厚化粧が汗のために崩れ、
雪の斑消
(むらぎ)えのようになった顔を皇女に向けた。

皇女は、何か言わなくては、と思ったが、すぐには何も言えなかった。
 大友皇子は父の中大兄譲りの白皙
(はくせき)の美男子であった。
あの白く肌理
(きめ)の細かい頬には、真っ赤な血の涙が伝っただろうか。
それとも、最期まで憂いある微笑を崩さなかっただろうか。

「はい。父君によろしくお伝えください」
 そう答えた皇女の目は我知らず露を含んでいたかもしれない。
 鵜野皇女は席を外した。
しかし皇女はすぐには大津皇子に会いにいく気になれなかった。

「姉上」
 どれほどそのままの姿勢で座っていたか、
自分でも分からなかったが、背後で皇女を呼ぶ声がした。
男の声のようだが、誰のものかは分からなかった。
先ほどの鵜野皇女と同じく、ひどく乾いて、か細い声だった。
その声は更に続けた。
「姉上。お分かりになりませんか。私です。大津皇子です」
 
―ああ!
 皇女は心の中で叫んだ。

そして、おそるおそる振り返った。 
そこには、まぎれもない弟の姿があった。
まだ幼さは残るが、
確実に皇女に似てきつつある目元で皇女の顔を覗き込んでいた。

皇女は振り返って弟を抱きしめた。
皇女の鼓動は再会の悦びに高鳴り、頬に熱いものが伝った。

「思っていました。いつもいつも逢いたいと、念じていました」
 皇女は悦びの涙にまみれつつ言った。

「姉上。困ります。そのように泣かれると…」
 大津皇子も姉との再会を尋常でないほど、喜んでいることはその声で分かった。
しかし、皇女のように我を忘れて涙を流したりはしなかった。
淋しさを感じる間もなく、皇女の目から、二人分の涙がこぼれ落ちた。
 皇女はむせびつつ、二人の溝を感じまい、
感じさせまいと腕にますます力を入れて弟を抱きしめた。

「姉上…」
 大津皇子も涙を流した。
皇女は何の隔てもなく片時も離れず一緒にいたころに戻ったような気がした。


その3
                           <系図を見る>

 
皇女は桑名
(くわな)での暮しをはじめた。
 しかし皇女は、その暮しがどうも性に合わなかった。
特別、何が嫌だったということはない。
大乱の後ではあったが、槍がとんでくるということなどはさらになく、
桑名の屋敷は奇妙なほどの静けさだった。

だが皇女は、頭に桶をかぶせられたような、閉塞感を常に感じていた。
その原因は分かっている。
ただ、鵜野皇女を目を合せるのがこわかったのだ。
単なる思いこみだと言われたらそれまでだが、
鵜野皇女は、まちがいなく皇女を、敵意のこもった目で睨みつけていた。

そして、皇女が、鵜野の視線に怯え、
手の平に汗を握り、じっと下を向いている時、決まって大津皇子がやってきた。
大津皇子は、皇女の青い顔を心配そうに覗き込むと、
鵜野皇女に向かって低い声で何かをつぶやく。
鵜野皇女はさっとあらぬ方に視線を浮かせ、
「何でもないのです。大伯姫は近ごろ少し気分がすぐれないのです」
と冷たく言い放った。
その声が気の毒なほど低く掠れているのがおかしかった。

皇女が、鵜野の視線に怯えている間にも、月日は流れた。
大津皇子は、大人に向かって日々変わっていった。
衣の上から分かるほど、体格が筋骨たくましくなった。
そして、皇女に話しかける言葉も、近江にいたときの子供っぽさが抜けて、
大人の男のそれに近くなっていった。
鵜野皇女や刑部皇子にも、一人前の意見が言えるようになった。

弟の成長を、皇女は喜んだが、
それとともに何だかひどく淋しいような気持ちが、体内に疼いた。
鵜野の視線に怯え、弟の成長に戸惑いながら、
皇女はひと月ほど、桑名で過ごした。

「皆さま、大海人皇子さまがお戻りでございます。
ただいま大海人皇子さま、この桑名へお戻りになりました」
 騒々しい騒ぎを引き連れて、父は帰還した。

乱は父の圧勝であった。

父は綺羅々々しい出で立ちで館に入ってくると、出迎えをする鵜野皇女に、
「我が皇子たちは三人とも元気であったか」
 と問うた。

「みな元気で、あなたのお帰りを待っておりました」
鵜野皇女はいつになく堂々たる口調で夫に答えた。

「そうか、それは何よりだ」
 と大袈裟に喜び、三人の皇子たちを次々に抱きしめた。
大津皇子も草壁皇子も刑部皇子も、父との再会を喜んだ。
 その中で皇女は、輪の中で一人浮いているような感触を覚えた。

「父上、姉上も都からまいられたのですよ」
 大津皇子の言葉にようやく皇女の存在に気付いた父は、
「大伯姫もまいったか、それは良かった」
 と言って笑った。

皇女は父への挨拶をしようと、慌てて口を開いた。
しかし、言葉の途中で不意に口を噤んでしまった。
今ここで、自分が父に挨拶をしてはいけない気がした。
否、自分の声が父に聞こえているかさえ不安に思えた。

大海人皇子は言うまでもなく父であり、大津皇子は弟だ。
鵜野皇女は叔母にあたるし、草壁皇子や刑部皇子も皆家族だ。
 しかし、皇女はそれらの人たちに血の通った温かさを感じなかった。
おそらく向こうもそう感じているのだろう。

大海人皇子が、三人の皇子と皇女を残して、
鵜野皇女と奥の部屋で酒を酌み交わしている間、
皇女は近江での日々を思い出して、その懐かしさに身を焼いた。
近江での暮しが全く平穏なものだったとは言わないが、
少なくともこんな感傷に耽ることだけはなかった。
 日が沈みかけると父はそっと館を出ていった。




長男の高市皇子
(たけちのみこ)を本宮に残し、
戦後処理をあらかた終わらせた大海人皇子の行動は早かった。
飛鳥浄御原
(あすかきよみはら)に都を造営し、
六七三年の二月、ついに天皇として正式に即位した。

大海人皇子が即位すると同時に、鵜野皇女が皇后に立った。
皇女の母、大田皇女は既に亡くなっていたが、
大海人皇子には鵜野皇后の他にも大勢の嬬
(つま)がいて、
その嬬の一人ひとりにもそれぞれの身分に応じて待遇を与えた。

大海人皇子の即位式には、当然、皇女も出席した。
 父天皇の造営した都は、型破りなほど、大規模で華麗だった。
大津皇子は吉野で生活を共にした親友の刑部皇子と一緒に出掛けたらしく、
皇女はひとりで輿に乗っていった。

式が始まって、華やかな天皇の出立ちで堂々と姿を現した父は、
初老とよんでもおかしくない年齢にさしかかっていながら、
その目は燃えるような希望と熱意に溢れていた。

それに較べて、天皇の傍らに座っている鵜野皇后の窶
(やつ)れようは目立った。
戦での心労に加え、自身が皇后に立ちながら、
息子の草壁皇子が立太子の宣下を受けていないことも、
皇后にとっては悩みの種なのだろう。

この式には、大友皇子の妃であった十市皇女
(とおちのひめみこ)も出席していた。 
夫を殺した父の即位式に出席する気持ちがどのようなものなのか
皇女には分からなかったが、
十市皇女は儀式の間中、
晴れ着を来た天皇の姿を食い入るように見つめていた。

儀式が終わると十市皇女は、
天皇に忠誠を誓う人々の間をぬうようにして、
空中を浮遊するように退席していった。
その顔は蒼白で傍らには、始終母親の額田王がつきそっていた。



 皇女が父天皇に呼ばれたのは、それから二か月後のことであった。

その日は、寒いことも暑いこともない、爽やかな天気で、
近江を離れてから気の沈みがちだった皇女も、
外の風に当たって今までの鬱々とした思いが一気に晴れた気分だった。

皇女は新しく作らせた裳を引きずって宮殿の長い廊下を歩いた。

「天皇さま。大伯皇女さまがお見えになりました」
 釆女の甲高い声が、まだ木の香新しい宮殿に響いた。

「よく参った。大伯皇女」
 天皇の声が皇女の頭上に響いた。

「遠慮はいらぬ。面を上げよ」
 皇女は顔を上げた。

しかし皇女は、驚きのあまり父天皇の顔から一瞬目を背けてしまった。
この国の王者である筈の父天皇の顔はひどく強張り、
血管が浮き出て見えた。
目には力がなく、わざと皇女から逸らしているように見える。


その4
                           <系図を見る>


「いきなり呼び出してすまなんだ。
今日はそなたに伝えねばならない大切な用件がある」

天皇の声に、皇女は我に返り、
「お気遣い畏れ入ります、父帝さま。
不届き者のわたくしはご挨拶を忘れておりました」
 と言い、再び跪いた。

「いや、大伯姫。そなたこそ気遣いは無用じゃ。
それより言わねばならぬことがある。
顔を上げて聞いてくれ」
 天皇の声は何かに怯えた子供のようだった。

―一体何を仰るのだろう
 
天皇の言わんとしていることが、並大抵の用件でないことは、
その声と態度で感じ取れた。
しかし、天皇から告げられたのは、
皇女が想像した以上に重いものだった。

天皇は皇女から目を逸らしたまま、延々と喋り続けた。
夕暮れの強い光が、天皇の頬にさしこむように注いだ。 
頭の芯がくらくらし、相槌を打つことさえ忘れた。
話が終わると、皇女は、憔悴
(しょうすい)しきった顔色のまま立ち上がった。

「大伯姫。今日は大儀であった。
朕が申したこと、よく聞き届けてほしい」

「分かりました、父帝さま。
しかし、都を発つ前に、ひとつ父帝さまにお願いしたきことがございます」
 皇女は、父天皇にこれだけは何としてでもお願いします、
と何度も念を押して頼んだ。

それが、皇女と父天皇との最後の会話だった。

皇女は、もと来た長い廊下を通って輿に戻った。
途中、引きずっている裳が足に絡みつき、何度も転びそうになった。

 それから幾日も経
(た)たぬ内に、
大津皇子が婚姻を結んだという噂が皇女の耳に届いた。
 相手は中大兄皇子が、蘇我氏出身の女・常陸媛
(ひたちひめ)に産ませた山辺皇女(やまのへのひめみこ)という女人だった。

「それは、おめでたいことではありませんか」
 皇女は言った。
「どうしてこの姉に直ぐに知らせてくれなかったのか不思議です。
今からお祝いを持って大津の宮に行きますから、輿を」
 皇女が命じると女人たちは、パタパタと忙しそうに動き出し、門前に輿が用意された。

「ご用意いたしました皇女さま。どうぞお輿へ」
 女人たちは皇女の手を持って輿へ導いた。

「いいえ。少し待ってください。髪に油をさすのを忘れていました」
 皇女はそう言って女人の手を振りはらった。

「は、そうですか」
 女人たちは戸惑った。

皇女は、朝起きた時に、いつも通り髪を結い上げて、油もさしていた。

「一体、どうなさったのでしょう」

女人たちが茫然と立ちすくんでいると、皇女は黙って立ち上がり、
髪を結っている糸をすべて切った。
髪がほどけたのを確認すると、皇女は髪につける油を手に取り、
獣の分泌液から精製したという液を油にそそいだ。
白魚のような薬指で油と液を混ぜ合わせると、
顔や首にまとわりついている髪に、丹念にそれを練り込んだ。
 それから、父天皇の即位式に着ていくために作らせたが、
結局は着なかった真新しい着物を纏った。

「準備は整いました。出掛けましょう」
 皇女はそう言って、大津皇子の宮へ向かった。

輿に乗って一刻ほどで宮には着いたが、
生憎
(あいにく)大津皇子は出掛けていて宮にいなかった。
 もう少ししたら帰ってくるとのことなので、
皇女は大津皇子の部屋で待つことにした。

「お帰りなさいませ皇子さま。
姉ぎみの大伯皇女さまがお見えでございます」
 馬の蹄
(ひづめ)の音とともに、
大津皇子の帰館を告げる釆女の声がした。

その声を聞くと同時にこちらに近付いてくる大津皇子の足音がした。
暫くして、その音は皇女のいる部屋の前で止まった。
 皇女はそのままの姿勢で大津皇子が自分の前に座るのを待った。
しかし、待てども待てどもその足音は部屋の前で止まったきりだった。
 
 大津皇子は、部屋の前で茫然と立ちすくんでいた。
 糊を利かせた真新しい着物を纏
(まと)いながら、
自身は髪も結わずにいる姉の姿に驚いたとともに、
(た)き染めた香の香りと、髪につけた液のにおい、
それに皇女の体臭が合わさったようなえもいわれぬ匂いが、
大津皇子の鼻をかすめた。

座っている姉を前に、
大津皇子は婚姻の席で会った山辺皇女を思い出した。
「よろしく、山辺どの」
 自分の呼びかけにたいそう緊張した風に、
「よ、よろしゅう」
 と答えた山辺皇女の声はまるで幼女のように垢抜けず、
部屋を退出する際に僅かに見えたその横顔は、
滅多
(めった)に屋敷の中から出ない深窓の姫君にしては、いやに色黒だった。
よくよく見ると、まだ女に成りきっていない胸の辺や腰周りはたいそう小柄で、
そのくせ、手足や首には人並み以上に肉がついて太かった。

「大津皇子。何を考え込んでいるのです?」
 やっと口を開いた皇女は大津皇子に問いかけた。

「いえ、姉上。我は姉上の美しいお姿に暫し見入っておりました」

「まあ、何をいうのです。
大津、あなたにはもう立派な妃がおられるではありませんか。
姉はそのことへのお祝いをたくさん持ってきたのですよ」
 皇女はそう言って持ってきた品物を大津皇子に差し出した。

「ありがとうございます、姉上」
 微笑しながら祝いの品を受け取る弟の姿に、
皇女は何か月ぶりかに再び心が通いあった気がした。

「姉上?」
 懐かしさのあまり黙り込んでいた皇女の顔を大津皇子が心配そうに覗き込んだ。

「あ、ええ。何ですか」
 皇女は我に返ったように顔を上げた。

「いえ、何を考え込んでおられるのかと」

「そう」
皇女は辛うじてそう答えると、また黙り込んだ。
沈黙のまま、暫しの時が流れた。

「そなたの顔を見て、ともに暮した近江での日々を思い出していたのです」
 皇女は言い終えると、不意に目を伏せた。

「楽しかったですねえ。
倭姫
(やまとひめ)さまのご庇護のもと、何不自由なく暮していた日は…。
湖の畔
(ほとり)で、全身泥まみれになって遊んだり、
夏の暑い日には水遊びに夢中になって、
気が付いた時には絞れば水が流れるほど着物を濡らしていました」
 大津皇子は果てしなく遠い所を見ているような皇女の白い顔をじっと見つめていた。

「そして、冬は…」
 大津皇子が相槌を打つ間もなく、皇女は続けた。
「褥の中で、夜が更けるのも忘れて、
そなたと一晩中語り合いました」
 皇女は目の前の杯に手を伸ばした。

「はい、我も覚えています。
決して忘れられるものではありません」
 大津皇子も、姉と過ごした近江での日々を思い出して、涙ぐんだ。

「そなたもお飲みなさい」
 皇女は弟の分の杯を差し出した。

それから二人は、近江での思い出を暫し語り合った。
亡き倭姫王のこと、中大兄皇子のこと、
それから今宮廷で話題になっている歌のことなど、
姉弟の会話は尽きることを知らなかった。
 気が付くと、辺は夕闇に包まれていた。

「大津」
 沈みかけた夕日を背にして皇女の声は、急に深刻になった。


その5
                           <系図を見る>

「姉はここで、もっとそなたと話がしたい。
でも、今日ここで、どうしても言わねばならぬことがあるのです」

「何でございましょう、姉上」
 大津皇子の声も、皇女に釣られて深刻になった。

「つい数日前、父帝さまからわたくしにお召しがありました。
そして、伊勢の斎王になるよう命じられました」
 皇女は棒読みのように言った。

「伊勢の、いつきのみこ…」
 大津皇子はその意味を理解していない様だった。 

「伊勢神宮で神に奉仕する女人のことです。
俗世を捨てて神に仕えることがわたくしの務めなのです」

「あ、姉上。それは…」
 困惑する大津皇子をよそに皇女は更に続けた。
「神に仕えるということがどのようなものなのか、
わたくしには分かりませんが父帝さまは確かにそう仰いました。
しかし、伊勢の斎王は異性と会うことを禁じられています。
そうなれば、もう都へ戻ることも、そなたと会うこともないでしょう」
 そう気丈に言い切ったつもりが、最後のほうはほとんど言葉になっていなかった。
皇女の白い頬には細い筋が奔り、首筋や膝は雨に打たれたようにしとど濡れていた。

「でもいいのです。神に仕えることが何よりの喜びなのです」
 皇女はしゃくりあげながら必死の思いで言った。

「姉上」
 皇女を見つめる大津皇子の目にも大粒の露がのっていた。
「我と離れて神に奉じることがですか」
 大津皇子の目から涙がしたたり落ちた。

皇女はどうかこれ以上言わないで、
と大津皇子に向かって、心の中で念じた。
愛する弟にこれ以上言われたなら、つき上がってくる感情を我慢できずに、
本当は伊勢になど行きたくないのです、父帝さまから無理矢理押し付けられた話なのです、
と大津皇子にとりすがり、泣き叫んでしまうかもしれない。

「何とか仰ってください、姉上」
 大津皇子の声がすぐ頭の上で聞こえた。
「姉上がお嫌でなければ我が父上に言ってこの話を取り消してもらいます」
 大津皇子は泣き崩れている皇女に凛とした声で言った。

その声を聞いて、皇女の頬を次から次へと伝う涙の筋に、
一筋だけ、悦びの涙が交じったかもしれない。
皇女は女人たちに支えられて輿に戻った。

それから数週間後、皇女は伊勢へ発った。

 
「凱旋」 完
注:このページを2006年6月4日以前にご覧になって下さった方へ
物語改変のため、最後の部分を少し変更していますので、
<その5>は、再度ご覧下されば幸いです。
次章の『狂気』につきましては、
修正した原稿を改めてアップするため、
暫時、削除させていただいております。
(ご迷惑をおかけいたしまして申し訳ありません)

「狂気」へ続く

▼物語への一言感想をお願いします♪        かきこめ〜る Ver.2.011 by St.Night Moon

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