迷    妄   <系図を見る>

その1

 皇女が伊勢に発つ朝は、雲一つなく晴れていた。

「皇女さま。お支度はできましたか」
 女人の声に、皇女は部屋を出た。

真っ白な斎王
(いつきのみこ)の装束に身を包んだ皇女の背に、
漆黒
(しっこく)の髪が重たげにかかっていた。

「では、輿
(こし)をひいてまいります」
 数人の女人がそう言って外へ出た。

「皇女さま。外は随分冷え込んでいるようです。
もう一枚、お重ねになった方がよろしいのでは」
 女人の一人が引き返して皇女に告げた。

卯月の中頃で、桜も散り初めというのに、
晴れた日はまだまだ朝冷えがきびしい。
 皇女は女人の持ってきた衣に袖を通した。

「さ、皇女さま。輿の準備ができたようなのでまいりましょう」
 皇女は白装束の女人を大勢引き連れて外へ出た。

見送りにきた大勢の人々で、門前はごった返していた。

このどこかに、天皇や鵜野皇后もいるのだろう。
大津皇子もいるかもしれない。
あるいは、名も無き庶民も人混みに交じって見物しているかもしれない。
 皇女は人混みには目をふれないようにして、輿に乗った。

 伊勢へは、輿で何日もかからなかった。

「着きましたよ、皇女さま。いえ、斎王さま」
 若い女人が、輿を降りようとする皇女に手を差し伸べた。

女人の手は、ひんやりと冷たかった。
 伊勢は思った以上に冷え込んでいた。
そして、人の気配が稀薄で閑散
(かんさん)としているためか、
空気が気持ちよいほど澄みわたっていた。

「ここは静かね」
 皇女は側にいる女人に話しかけた。

「はい、本当に。都での喧騒が嘘のようですね」
 皇女は女人と顔を見合わせて笑った。

まさにその通りだった。
都での喧騒―人々の熱情や喜び、哀しみ、嘆きなど―が嘘のようだった。

めまぐるしく変わる政情の中、
近江宮が破壊され、大友皇子が自害したこと、
父の大海人皇子が即位したこと、
そして、幼き日々の思い出が残る近江宮を焼き払い、
大友皇子を自害に追い込んだ父に対して複雑な感情を持った自分自身さえ、
遠い過去のものに思えた。

そればかりか、
ただ一人の弟・大津皇子との離別をつい昨日まで嘆き悲しんでいたことが、
まるで信じられなかった。
都を離れるとき脳裏をよぎった様々な感情が、
霧が晴れるように遠のいていった。

「お父上の帝さまや、
弟君の大津皇子さまと離ればなれになるのはお淋しいでしょうけれど…」
古参の女人が、皇女を哀れむような声で話し始めた。
「都から伊勢は遠いとはいえ、
二度と往来できぬことはないのですから、
直接お会いになることはできなくとも、
お文を交わすことはいつでもおできになりますから…」
皇女は女人のほうに顔を向けた。

女人は、覚えず涙声になっているのを悟られまいとするように、
色の薄い唇を広げて笑みを作った。

「分かっているわ」
 皇女は言った。
近江宮で共に暮していた頃の大津皇子の顔がふと胸に浮んだ。

「機会があれば、大津皇子に伝えてちょうだい。
直接は会いに行けないけれど、
姉はいつもあなたの幸いを祈っていますからって」

「皇女さま。そのようなこと、まるで亡くなられる方のようなことを」

斎王になった以上、死にまつわることは禁句である。
同行していた女人が一様に、鼻を啜っている古参の女人を睨みつけた。

「別に深い意味があるわけでないのよ。
姉として弟が気がかりだと言いたかっただけ」
 皇女はさっと目配せして、古参の女人を庇った。

今、大津皇子への恋しさが高まって涙が溢れてこないのは、幸いだった。
だが、こうして静かに伊勢で何年も暮すうちに、
大津皇子のことを忘れ、顔さえ思い出せなくなって、
相手からも忘れられていくのかと思うと、目尻に涙が滲んだ。



その2    <系図を見る>


斎王
(いつきのみこ)として伊勢の神に奉仕するようになってからも、
皇女はふとした拍子に大津皇子を思い出した。
大津皇子は元気でいるだろうか、病気などしていないだろうか。
都でどのような生活を営んでいるのだろうか。
 そして、大津皇子からの便りをいつもいつも切望していた。

二人きりの姉弟なのだから、近いうちに文の一つでも送ってくるだろう。
今日という今日には都からの使者が大津皇子の文を手にやってくるに違いない。
そう信じて朝を迎えても、
何の音沙汰もないままに夕暮れを迎える日が何日も続いた。

大津皇子はもはや自分のことを忘れてしまったのかと
皇女は不安にかられた。
直接会うこともかなわず、文
(ふみ)すら届けられない。
永久
(とわ)の別れという点では、まるで死別も同じだと沈み込む日もあった。

だが、大津皇子が二度とは会えない遠い世界に行ってしまったという感覚はなかった。
むしろ、死者は自分のほうだった。

大津皇子は都で普段と変わらぬ日常を送っている。
娶ったばかりの山辺皇女
―ひどく垢抜けない雰囲気の醜いと云ってもよいようなの娘だったが―
と仲睦まじい夫婦になっているかもしれない。
自分だけが都から遠い伊勢に閉じ込められて
大津皇子の日常に立ち入ることができない。
皇女は、大津皇子に近づくことも話しかけることも許されず、
ただ遠くからその姿を見ていることしかできない淋しい幽霊だった。。

 孤独な感傷に浸っている皇女をよそに、季節は冬へと移った。
 良くも悪くも大津皇子を思い出すことが間遠になり、
日々の祈祷にも大分慣れてきたころだった。

森の木々や外にくくりつけた榊葉
(さかきは)や白木綿(しらゆう)の上に、
真っ白な雪がのっているのを見つけた朝、都から大形
(おおぎょう)な使いがやってきた。
数年前の戦での天皇の勝利を伊勢の神に御礼申し上げる儀式を執り行うというのだ。
そのために、都から十市皇女
(とおちのひめみこ)と阿閇皇女(あへのひめみこ)を遣わす。
斎王として二人とともに立派に儀式を執り行ってほしい。
都からの遣いは皇女の前に平伏してそう告げた。

阿閇皇女は先帝中大兄皇子の娘で、
戦に敗れて自害した大友皇子の異母妹だった。
一方の十市皇女は、現天皇大海人皇子と額田王との間の娘で、
皇女の異母姉でもある。
だが十市は、大友皇子の妃となり、大友との間に男皇子まで儲けていた。

皇女自身は、大海人皇子と大田皇女との間の娘だが、
母の大田亡き後、慈しんで育ててくれたのは、
祖父の中大兄皇子とその后倭姫王、そして大友皇子だった。

父の大海人皇子が戦勝により即位したとはいえ、
夫を殺された戦に対する十市皇女の気持ちは内心複雑なものだろう。
また、皇女自身、優しかった祖父や美しかった大友皇子への思慕は断ち切りがたく、
父・大海人皇子には未だに小さなわだかまりが残っていた。

三人の女人の胸中を思うにつけても、
中大兄皇子の弟・大海人皇子と、息子・大友皇子が戦った戦、
すなわち叔父と甥で皇位を奪い合った戦の複雑さが胸にしみた。




その3    <系図を見る>

「斎王さま」
 女人の声が、背後から皇女を呼んだ。

「只今お着きになりました。
十市皇女さま、並びに阿閇皇女さま、ご到着でございます」
 女人は低い声でゆっくりと告げた。

皇女は振り返って、深々と頭を下げている女人を見下ろした。
白装束に身を包んだその女人は、
長い髪を髪油で黒々と固め、顔には厚く白粉を塗り、
濃い色の紅をさした唇が血のように光っていた。
生身の女とはあまりにもかけ離れたその姿に、皇女は思わず圧倒された。

ここ伊勢国は、俗世の人間が住むべき場所ではない。
神さえこの地に住んでいらっしゃるのだ。
そしてこれから自分は、その「神」と面会し、戦勝を御礼申し上げねばならない。
身の引き締まるような緊張感とともに、皇女は深い恐れを感じた。

「大丈夫ですよ、斎王さま」
 女人は顔を上げて、ほほほ、と小さく笑った。

「そのように緊張なさらずともようございますよ。
儀式などすぐに終わります」
 女人は口元を綻ばせて、哀れむような柔和な目で皇女を見上げた。

女人の顔を見て
、皇女はふっと緊張の糸がとぎれた。
俗世と遮断された遠い伊勢国にも、自分に仕えてくれる女人がたくさんいる。
そしてその女人たちも皆、身内や恋人に別れを告げてここ伊勢に赴いたのだ。

「さあ、参りましょうか」
女人に促されて、皇女は立ち上がった。

女人がさっと扉を開け放った。
 階
(きざはし)の下に、大きな輿と大勢の従者たち、
そして居並んで頭を垂れている十市皇女と阿閇皇女がいた。

「斎王・大伯皇女さまがお出でになります」
 女人が高らかに言い放った。

皇女はゆっくりと一段一段階を下った。
雲の間から日の光が細く差し込んだ。

「ようこそお出でくださいました。
どうかお顔をお上げください。十市皇女さま。阿閇皇女さま。
短い時間ではございますが、今日はよろしくおつきあいください」 
皇女は明るすぎる日の光に目を細めつつ言った。


「こちらこそ。今日はよろしくご指導願います」
阿閇皇女はまっすぐ顔を上げてそう言った。

阿閇は皇女と同い年だった。皇女よりもわずかに背が高く、
年の割にはしっかりした風情の女人であった。
それでも、声にはあどけなさが残り、
肉付きのよい色白の肌からは、年相応の瑞々しい色香が感じられた。
 
阿閇皇女は年明けには皇女と大津皇子の異母兄・草壁皇子の正室となることが決まっていた。
大津の妃・山辺皇女も、今頃は阿閇のように瑞々しく麗しい女人に成長しているのか。
皇女は都の近況を阿閇に尋ねてみたい衝動にかられながらも、
儀式の最中に私事は無用とひそかに自分を戒めた。

「ではご神前に向かいましょう。阿閇さま」
皇女は祭壇に向かって歩き始めた。

そのとき、十市皇女がこれまで一言も口を利かず、
会釈もしなかったことにふと気が付いた。
自分より年下の皇女を斎王として仰ぐことが我慢ならないのか。
それとも、夫の大友皇子が自害した戦の勝利を祝うことにわだかまりを感じているのか。

「祈祷を始めますから、その場で軽く目を閉じてください」
 皇女は神前に向かう前に、二人の皇女に小声で告げた。
 そのときも、十市皇女は目を伏せたまま、頷く気配さえ見せなかった。

「斎王・大伯皇女。
天皇のみ名によりて、壬申の戦での勝利を伊勢の大神さまに御礼申し上げます」
 皇女は厳かに祝詞を述べ、祈祷を行った。

長い文句がすらすらと口をついて出た。
一度も言い淀むことなく無事に祈祷を終えられたことに安堵し、ほっと息をついた。
 
祈祷が無事終わったことを告げるため、皇女は後ろを振り返った。
 その瞬間、十市皇女の白い顔が目に飛び込んできた。
十市皇女は日の光の下で無防備に目を閉じている。

皇女は何を思ったのか、やおら近づいて、十市皇女の顔をまじまじと見つめた。
 間近で見ると、年齢に不相応な小皺が顔のそこかしこに刻まれていた。
運命に翻弄され、人より早く老い衰えてしまった十市を皇女は哀れに思った。

現天皇大海人皇子の長女でありながら、戦に敗れて惨めに死んだ大友皇子の正妃。
子まで成した夫を父に殺された女――。
十市皇女の心痛は察するにあまりあった。
 
十市は固く目を閉じて、怒ったように唇をキっと結び、
嶮しい表情を浮かべていた。
女らしい柔らかさとは無縁であったが、
十市の顔は固く塗り固められた白い彫像のような孤高の美しさを放っていた。
様々な苦労と引き替えに、凡人には真似できない美しさを、神は十市に与えられたのか。

「斎王さま。祈祷の終了をお告げください」
 傍らにいた女人が耳元で囁いた。

「無事終わりました。十市皇女さま、阿閇皇女さま」
 皇女は我に返って言った。
 
十市と阿閇は顔を上げて、揃って目を開けた。
十市は途端に日の光を嫌がるように顔を背け、不機嫌そうな表情を浮かべた。
 
十市は帰りを急ぐように早足で歩き始め、話しかけるのが憚られた。
皇女は阿閇と短い世間話を交わしながら十市皇女の後を追った。




その4    <系図を見る>

阿閇皇女との会話が途切れると、
皇女は何かに追い立てられているように黙々と歩き続けた。
随行していた女人が、皇女の後を小走りに追いかけた。

「斎王さま」
 阿閇皇女が、後ろから皇女を呼び止めた。
「あの、輿を止めたところまであと少しですので、ここで失礼させていただきます」

「あら、もうお帰りになるのですか。一晩くらいお泊まりになっても…」
 皇女は覚えず阿閇を引き留めた。

一緒に過ごしたのはたった一日だけなのに、すっかり情が移ってしまったのか。
阿閇との別れが妙に名残惜しかった。
 阿閇とは近い血縁にあるわけではなく、
まして自分は伊勢の斎王なのだから、
ここで別れたが最後、今度いつ会えるとも分からない。

「わたくしもそう致したいのですが、
早く都に帰って天皇に儀式が無事終わったことをご報告せねばなりませんから」
 阿閇は、皇女の心中には気づきもせず、胸を張って明るい声でそう言った。
 
皇女は都と伊勢の遠さを、
そして斎王という立場ゆえの孤独を今さらのように思い知った。
 
そのときだった。

「皆さま、大変です」
 一人のうら若い女人が髪を振り乱して、大声で叫びながら走ってきた。
 
顔を真っ赤にしてただならぬ雰囲気である。
 何か尋常でない事態が起こったに違いないと、
皇女を始めその場にいた人々に緊張感が走った。

「何事ですの?」
 皇女のすぐ側にいた女人が問いかけた。

「それが、十市皇女さまがいらっしゃらないのです。
ご祭前からここまで来る途中にはぐれてしまったようで…
 あああ、どうしましょう」

「それは大変。斎宮寮の奥は森が広がっているのですよ。
ここから見えるところにはいらっしゃらぬようですし。
 
まさか森の中へ迷い込んでしまったということは、ないとは存じますが…」
 皇女付きの女人は、十市皇女付きの若い女人を咎めるように言った。
 
深刻な事態に直面したことを、誰もが悟った。
 森の中には人を喰らう鳥や獣がいるかもしれない。
恐ろしい魔物が棲んでいるかもしれない。
 
しかし、十市皇女はどうして一行からはぐれてしまったのか。
 空想にふけりながらぼんやりと歩いている間に一行から離れてしまったのか。
それとも…。

「ともかく、一刻も早くお探ししましょう。
阿閇皇女さまをお引き止めするわけには参りませんから、
十市皇女さま付きの方々とこの斎宮寮の者で、手分けしてお探ししましょう。
まだそう遠くに行ってはおられぬはずですから」
 年配の女人が人々の恐怖や緊張を打ち消すように大きな声で言い放った。

「そうですね。それが一番ですね」
 女人たちが口々に十市の名を呼びながら散っていった。

「斎王さま…」
 皇女の側に残った女人が溜息まじりに言った。
「とんだ騒ぎになりましたねえ。
十市皇女さまの周りには供の者が大勢付いていたはずですよ。
ますますおかしいですねえ」

「本当に。いつの間にはぐれてしまったのかしらね」

「皆、十市さまを探しに行ってしまったようですし、
わたくしたちは先に宮へ戻りましょうか」

「そうね。でもわたくしだって十市さまが気掛かりだわ。
少し遠回りしてお探ししながら戻りましょうよ」

「そうですか。斎王さまがそう仰るのなら…」
女人は不請不請頷いた。
 二人は、森に沿って歩き始めた。
 
十市皇女はいったいどこへ迷い込んだのか。
冷たい夜風が吹き抜けて、皇女は身震いした。

「大伯姫さま」
 不意に、森の中から声が聞こえた。
 
皇女は一瞬耳を疑った。
声は森の中から響いているとしか思えない。
声の主は誰なのか。森の木々の間に何が潜んでいるのか。

「大伯姫でしょう? いえ、斎王さまとお呼びするべきかしら」
 皇女が呆然と立ちつくしていると、森の茂みがガサガサと音を立てて動いた。
 側にいた女人が、怯えたように皇女の腕をつかんだ。

「そう驚かないでくださいな。
大伯さまが通りかかるのを待っていたのよ」
 森の中から十市皇女が姿を現した。
 
皇女は覚えずあッと声を漏らした。
 
十市皇女は悪びれた風もなく、つかつかと皇女に歩み寄った。
「大伯さま。わたくし、大伯さまにどうしても聞きたいことが…」

「十市皇女さま」
 皇女は、強い語調で十市を遮った。
「どうしてこのようなところへいらっしゃったのですか。
皆お探ししておりましたのよ」

「大伯さま。
お腹立ちはもっともですが、わたくしの話を聞いてくださいませんか。
わたくし大伯さまにどうしても聞いておきたいことがあったのです」

「何事でしょう」
 皇女は、十市皇女が森の中に潜んでいたことの不可思議さも忘れて問いかけた。

「大伯さまは、何故に、斎王となる運命に身をゆだねたのですか」




その5    <系図を見る>

「それは…」
 皇女は言い淀んだ。
 
斎王となる女は未婚の皇族でなければならない。
だが、それは何も皇女一人に限ったものではない。
数多くいる未婚の皇族たちの中で、
父帝の大海人皇子は、皇女を選び斎王とした。

もしも斎王になっていなければ、
今ごろ父の築いた飛鳥の都で暮らし、誰かの妃となっているだろう。
近江宮で過ごした頃のように、
大津皇子ともたびたび顔を合わせているだろう。
 
皇女は、華やいだ都に当たり前のように住んでいる自分の姿を夢想した。
それと同時に、近江宮で過ごした頃の大津皇子の笑顔や
倭姫王とのさまざまな思い出、
そして幸福そうにしている幼い自分の姿が走馬灯のように浮んだ。

「答えてくださらぬのですか」
 十市の声に皇女ははっと我に返った。

楽しかった思い出が去り、目の前に茫々とした森が残された。
「あ、あの…」
 皇女はごくりと生唾を飲みこんで口を開いた。
「父帝のご命令なのです」

「帝のご命令? 
我々の父上・大海人皇子のご命令、
それだけで、俗世の女としての幸せを捨てて
伊勢の神に奉仕することを決意されたのですか。
斎王にお成りなさらなければ、
大伯さまだって、今頃はどなたかと結ばれて…」

「そうね。
今もたびたび、斎王になる前を懐かしく思い出します。
斎王となることを定められた父君を恨みに思うこともないではありません」

「大伯さま、あの…」
 十市皇女は言いにくそうに目を伏せ、
下に落ちている葉を足先で弄んだ。

「何なのです」

「どうか、父君を恨みに思わないでください。
父君は、亡き大田皇女さまの忘れ形見であるあなたさまを大切に思って、
ご夫君だってちゃんと決めておられたのです」

「それは、どなたですか」
 十市皇女の話はまったくの初耳だった。

あの戦のとき、大津皇子だけを父のもとへ遣り、
父がよこした使いに従わず近江にとどまった自分は、
父に疎んじられているとばかり思っていた。

また、父は皇女の夫に誰を選んだのか、
斎王となっていなければ結ばれていたかもしれない男は誰なのか、
少しばかり興味を引かれた。

「高市皇子さま」
 十市は妙に甲高い声で言った。
 
大海人皇子の長子であり、
戦で活躍し、大友皇子を破って大海人皇子を勝利に導いた人物だ。
戦の後は父の大海人とともに飛鳥に都を築き、
政事にも携わっているという。
皇女の夫となるには、何の不足もない男だ。

「大伯さまも名前くらいはご存知でしょう? 
高市皇子は文武ともにすぐれた方で、
父君もそんな息子を愛しておられた。
でも、高市皇子は母親の身分が低いために、
天皇にしてやることはできない。
だから、大津皇子の姉君の大伯さまを妃にさせて格を持たせ、
重要な仕事を任せようとなさったのよ。
そして戦で負けた大友皇子の妃だった私は…」
 十市皇女は悲しそうに語尾を濁した。

皇女は黙って話の続きを待った。

「父君は最初、大伯さまを高市皇子の妃にして、
私を神の妃と云って神宮に閉じ込めようとなさったの。
でも、高市皇子が父君に言ったらしいわ。
私の方が、十市のほうがいいって。
大伯さまよりも、十市皇女を妃にほしいって」
 
皇女は何か言い返そうにも、言葉が出てこなかった。
伊勢の神に選ばれたからでも、父帝の命令でもない。
自分は十市皇女に負けて斎王となったのか。
斎王の装束を身につけた自分は、
今、女人としての魅力のかけらもない女と十市皇女に嘲笑われているのか。
伊勢の地には不似合いなあまりにも生々しい愛憎模様に目眩がした。

「才能も人望もありながら、
母親の身分のせいで一生天皇になれない高市皇子を父君は哀れに思われた。
そして、少しくらいのわがままは聞き入れてやろうって気になったらしいの。
そして大友皇子に死なれて寡婦となった私を高市皇子に与えようとした。
もちろん、大伯さまの立場もお考えにはなったでしょうけれど、
草壁皇子には阿閇皇女がおられたし、
ふさわしい男はもう残っていなかった。
刑部皇子さまはまだ妃を娶るのは早いと言って遠慮なさったらしいしね。
それで、やむなく斎王に命じられたらしいわ。
でもひどい話ね。
高市皇子にとっては、
大きな仕事を成し遂げた後の少しばかりのわがままだったかもしれないけれど、
大伯さまにとっては一生の問題なのに」
 
皇女はあまりの衝撃に身体が強ばり、頷くことさえできなかった。

十市はか細い声で延々と話し続けた。
「大伯さま」
 十市皇女は皇女の目を見つめて言った。
こころなしか十市の両目が潤んでいるように見えた。
「高市皇子の妃になりたかった?」
 
皇女はそっと自分の胸に手を当てた。
高市皇子とは言葉を交わしたこともなく、
その姿形さえ記憶に留まっていない。
高市と結ばれて、愛を交わし、
高市の子を孕んでいる自分の姿を思い浮べることはできなかった。
ましてや、年下の草壁皇子や刑部皇子に抱かれたいとは夢にも思わない。
こうなれば、特定の誰かでなくてもいい。
この世の男の誰かと結ばれて、子を産み、
わが子に乳を含ませている自分の姿を想像しようと試みたが無駄だった。
皇女の脳裏をよぎるのは、
近江宮で大津皇子や倭姫王と過ごした、楽しかった思い出の日々だけだった。 

「十市さま。あの、何といったらいいか分からないのですけれど、あの…」
 皇女は今の気持ちを十市にどう伝えればよいか思いめぐらせた。




その6    <系図を見る>

「わたし、自分がどなたか男の方を結ばれて幸せに暮している姿がどうしても想像できないのです。
高市皇子さまに限らず、どなたとも。
開き直っていると思われるかもしれませんが、
これがあるべき道だったような気がします。
わたくしが神の妃として伊勢に閉じ籠もり、
阿閇さまが草壁皇子の妃となり、
あなたさまが大友皇子さまと高市皇子さま両方の妃となられることが」
 
結局、自分はどこをどうしても幸せにはなれないのか。
近江宮で過ごした数年間で一生分の幸せを使い切ってしまったのかも知れないと、
皇女は心の内で深い溜息をついた。

「私は嫌です」
 十市皇女は急ききった口調で言った。
「大伯さまはもう諦めてしまわれたのですか。
私は嫌です。
縁あって大友皇子さまと結ばれて、
格別仲が良かったかどうかは分からないけれど、
連れ添ううちに葛野
(かどの)という可愛い男の子まで産まれて…。
その夫が死んで間もないというときに、
また別の方と結ばれるなど、そんな運命を受け入れることはできません。
それに、高市皇子は大友皇子の敵側で、
大友皇子を自刃に追い込んだ張本人なのよ。
高市皇子の妃になどなりたくはない。
私の夫は大友さまただ一人」
 十市皇女はさめざめと泣きはじめた。

この一連の会話を高市皇子が聞いたら何と思うだろう。
十市の話から察するに、高市皇子は武道には秀でていても、
身分が卑しいだけに細かい配慮に欠ける人なのかもしれない。
好きな女の前では何の思い入れもない大伯などという女のことは気にもとめなかったかもしれない。
しかし、愛する十市が自分との縁談を嫌がっていることを知ったら何か思わずにはいられないはずだ。

「お互いとんだ目に遭ったわね。
いいえ、私のせいで大伯さまにとんでもない重荷を負わせてしまったのかもしれない。
父帝さまのご命令とあっては、
大伯さまに逆らうすべはなかったかもしれないけれど、
私は、たとえ父君が命じられても、高市皇子の妃にはならないわ。
私も、大伯さまのように斎女になることに決めたの。
父君のご命令に背くためには、それしか無いのよ。
大伯さまのような正式な斎王にはなれないけれど、
父君の嬬となって私を生む前は巫女だったとかいう母・額田を頼って、
どこかの神宮に住まわせていただくわ。
今日はそのことを大伯さまに報告したくて、はるばる都から来たの」

「どうして、巫女なんかに…」
 
皇女がそう尋ねようとしたその瞬間、十市は烈しく咳き込んだ。
抱え込んでいた悩みや悲しみをすべてはき出そうとするかのような烈しい咳が続いた。
少女のような痩せて平坦な胸元が咳とともに慌ただしく上下した。

「ごめんなさい」
 ややあって十市が呼吸を整えながら言った。
「変なことばかり教えてしまったわね。
それにこんなにお引き止めして。皆探しているはずよ」

「いいえ、いいのです。
それより、こちらから一つお尋ねしてもいいですか。
わたくしも、大友皇子さまのお姿はよく憶えております。
あのような美しい方と結ばれて、果ては高市皇子さまにまで望まれて、
それであなたさまは幸せを感じなかったのですか」

「そう…ね」
 十市皇女は下を向いてしばし考え込んでいた。
「よく分からないわね。
大伯さまはよく憶えているって仰るけれど、
私、今となっては大友皇子さまの顔も朧げにしか思い出せない。
でも、これから先、少しでも幸せが待っているとは、どうしても思えないのよ」
 十市皇女は弱々しく佇み、風に吹かれていた。

皇女は慰めの言葉を探した。
 そう嘆いてばかりではいけない。
父帝も、母君の額田どのだってあなたの幸せを願っているはずだ。
大友皇子と高市皇子の二人の皇子に望まれたことを誇りに思わなければいけない。
生きていれば幸せはいつかやってくるはずだ。
あなたには息子さんだっておられるのだから、もっと強くならなければ…。
だが、どの慰め文句も皆、目の前の十市皇女にはまったくの無意味である気がした。
 
皇女は蚊の鳴くような声で、覚えず呟いた。
「そうね。わたくしもおんなじ…」


「あら、いらっしゃったわ。
十市皇女さまがいらっしゃったわ。
大伯斎王さまもご一緒よ」

「まあ本当。こんなところに…」
 遠くから、女人の声が聞こえてきた。
 
しだいにその声が大きくなって、四・五人の女人が姿を現した。

「こんなところにいらっしゃったのですね。
斎王さま。
申し訳ございません。
すっかりお姿を見失ってしまって…」

「ああ、斎王さまに十市皇女さま。
本当に申し訳ありませんでした」

「ささ、ともあれ早く戻りましょう。
日も暮れてまいりました。夜露は身体に毒ですわ」
 安堵の表情を浮かべた女人が皇女と十市の周りを取り囲んだ。
 
そう言えば今まで、女人たちに何の断りも入れず、
社の外で十市皇女と話し込んでいたのだった。

「気にしないで。
わたくしこそ、そなたたちに何も言わずに森に迷い出て、悪かったわ」
 皇女は慌ててその場を取り繕った。

「そうよ。
私が悪かったの。
斎王さまを長いことつきあわせてしまったわ」

「十市さま。どこへ行っていらしたのです。
もう阿閇皇女さまは帰路についていらっしゃいますよ。
さあさ、早く輿に戻りましょう。あまり遅くなられると額田さまも心配なさいますよ」
 十市皇女付きの女人が慌ただしく言った。

「そうね。もう帰りましょ。
斎王さま、今日は本当にお世話になりました。これにてお暇いたします」
 十市皇女はさっと踵を返して、女人に支えられるように歩いて行った。

「斎王さま。私たちもそろそろ宮に戻りましょうか」
 女人に促されて皇女は神宮へと歩き始めた。

途中、十市皇女の白い顔が幾度となく胸をよぎった。
俄には信じがたい話ではあったが、
皇女にはなんの関わりもない人々の小さな愛憎の末に流れ着いたのがこの伊勢であり、
嫁がず産まず神に仕えるという定めだったのかもしれない。
皇女は自分に仕えてくれるためだけに俗世との交流を絶って伊勢に赴いた女人たちを眺めながら、
十市皇女の話を心の中で反芻した。
 
だが、ひとたび暖かい室内に入って強い睡魔に襲われてみると、
十市皇女と交わした会話そのものが夢だった気がした。




その7    <系図を見る>

「斎王さま。もうお寝みですか」
 寝所の入り口から、女人が遠慮がちに呼びかけた。

「いいえ、まだ。何かあったのか」
 皇女は眠気と戦いながら、かろうじて答えた。

「たった今連絡が入りまして、
阿閇皇女さまも十市皇女さまも、無事に都へ着かれたそうです」

「さようですか。ご苦労でした」

「はい、それから…」
 女人は続けて何か喋ったが、
皇女は引き込まれるように眠りへと落ちていき、女人の声も聞こえなくなった。
 皇女は褥に倒れ込み、それきり動かなくなった。 


「ごめんなさいね、お母さま。
この日がこんなに早く来るとは思いませんでしたわ」

「十市姫。なんと悲しいことを言うのです」

「いいえ、そんなつもりではなかったのよ。
それに神に仕えるといっても、お母さまとはいつだって会えるのですもの」

「そうよ、十市。
あなたに暇があったらお母さまはいつでも泊瀬まで参りますからね」

「でも、葛野とは会えなくなるわ。
わたしが神に仕えている間、葛野の世話をお願いできますか?」

「もちろんよ。
葛野はお母さまが責任をもって、
お前が驚くくらい立派な男の子に育ててみせるわ」

「そう。だったらわたし安心だわ。
でも、何だか可哀想だわ。
葛野は母の顔も知らずに大きくなるのね」

「まあ、さっきから悲しいことばかり言って…。
泊瀬へなど、行きたくないなら行かなくていいのよ」

「でも、今さらやめられません。
それに泊瀬へ行かなかったとしても、他に行きたいところなんてないもの」

「十市、行きたくないのね。
ならば無理しなくていいのよ。
誰かに代わってもえらばいいのです。
そうだわ。大伯姫さま、大伯さまに代わってもらいましょう」

  皇女ははっとして目を覚ました。
 女が二人、目の前に立っている。
 まだ娘と見える華奢な女と、その女が母と呼んでいる豊満な婦人の二人だ。

「十市皇女さま」
皇女は驚いたあまり声を上げた。
 華奢で色白な女は、ついさっき別れたばかりの十市皇女だった。
 白い祭祀用の衣をまだ纏っている。  

「どうかなさったのですか。十市さま」
 皇女は慌てて十市皇女に駆け寄ろうとした。

すると豊満な女が、十市皇女を庇うように皇女の前に立ちはだかった。
「大伯皇女さまですか」
 女はやや小首を曲げて問いかけた。
 
皇女はかすかに頷いた。

「ご存知ないかもしれませんが、
わたくしは十市皇女の母親で、額田と申します」
 
額田王…。
皇女の父でもある大海人皇子に愛されて十市皇女を産み、
後には中大兄皇子にも召された女。
 目の前の額田王は、晩年にさしかかっていたが確かに美しく、
髪や首筋から艶やかな女の匂いが立ち上っていた。

「お願いがありますの」
 額田王は唐突に切り出した。
「十市姫の代わりに泊瀬の斎女になってくださいませんか」
 額田王は皇女の目の前に顔を近づけて言った。

「何故でしょう。
泊瀬の斎女には十市皇女さまが立たれると聞いています。
 十市さまも、それを望んでいらっしゃったのですよ」

「気が変わったのよ」
 十市皇女が甲高い声で言い放った。
「わたしにはね、お母さまも一人息子の葛野もいるのよ。
斎女として泊瀬に閉じこもるなんてつまらないわ」
 
皇女はそれを聞いて、無性に悲しくなった。
 母の死、弟との離別、そして斎王としての禁欲、孤独…
 世の人々がおおよそ嫌がるすべての苦難や災いを、
なぜ自分だけが引き受けねばならないのか。

「代わってくださらないの?」
 十市皇女が言った。
「ねえ、どうしてなの。大伯さま」
 十市皇女は先ほどとは打って変わってひどく悲しそうな顔をしていた。
目には涙さえ浮かべている。
「だめなのね。分かったわ」
 
十市皇女は、着物の合わせ目に手を入れた。
しばし着物の中をまさぐった後、皇女の目の前に右手を差し出した。
その手はきらりと光るものを握りしめている。
 十市皇女は顔を上げて皇女と目を合わせた。
 そして、握りしめている小刀で自らの胸を貫いた。

 立ちはだかっていた額田王がどさりと倒れた。

「十市さま」
 皇女には、もはやどうすることもできなかった。
 
鈍い音とともに大量の血潮が飛び散り、皇女の肌を豪雨のように打ちつけた。
皇女は見ていられなくなって、覚えず目を閉じた。
心臓が激しく波打ち、周り中の音が遠のいていった。


「斎王さま、斎王さま」
 どこからか女人の声が聞こえた。
「起きてください。斎王さま」
 女人の声に少しずつ今までの記憶が戻ってきた。
 
十市皇女を見送った後、皇女はすぐに眠りについた。
ということは、あれはすべて夢だったということか。
それにしても、ひどく鮮烈で禍々しい夢だった。

「お目覚めになりましたか」
 皇女は目を開けた。

女人たちが皇女を取り囲むように腰を下ろし、
心配そうな目で皇女を見下ろしていた。
起きあがろうとすると、どうしたわけか強い吐き気を感じて、目の前が暗くなった。

「無理なさらないでください、斎王さま。どうか横になっていらっしゃって」
 若い女人が皇女を押しとどめるように横たわらせた。
「ひどい熱なのですよ」
 別の女人が気の毒そうに言った。
 
熱があるという実感はなかった。
まだ夢の中を漂っているような妙な気分だった。

「もう大丈夫よ。少し悪い夢を見ていたの」

「さようですか。どのような夢をご覧になっていましたの?」

 皇女は口を噤んだ。
 口に出してしまえば、夢が現実のものとなるような気がして恐ろしかった。

 それからしばらくの間、皇女は床を離れられなかったが、
月日を経るにつれて少しずつ健康を回復した。
 ほぼ体調が元通りになったころ、皇女に突然ある報せが届いた。

「斎王さま」
 女人は深刻そうな声で皇女に告げた。
「都からの使者が突然来られました。
斎王さまにお目どおり願っています」

「何ですって。都からの使者が?」

「はい。斎宮寮の役人ではなく、
斎王さまに直接お伝えしなければならないらしいのです」

「分かったわ。今すぐ行きます」

「何やら緊急のご用件だそうです。お急ぎを」
 女人はそう告げると足早に去っていった。

皇女は慌てて女人の後を追いかけた。
そして使者が待っているという部屋へ急いだ。

「お待たせいたしました。伊勢斎王・大伯皇女さまにございます」
 皇女は同席を許された女人と腰を降ろした。

「先触れもいたさず、突然まいりました無礼をお許しください」
 横一列にずらりと並んだ使者は皇女に向かって恭しく頭を下げた。

「いいえ、遠慮は無用です。顔を上げなさい」

「はっ、斎王さま。かたじけない」
使者はいっせいに顔を上げた。

 どの顔も異常に額が広く、一様に血の気を失っている。
皇女は脅威を覚えた。

「男子禁制の神聖な宮に何の先触れもなくお伺いするのは気が引けたのですが、
緊急のこと故いたしかたなかった。どうかお咎めにならないでください」

「緊急の用とは何事でしょう」
皇女の問いに使者たちは一瞬硬直した。

 しばし沈黙が流れた。

「今日、泊瀬の斎女となられる方の行幸があるなのはご存じでしょうか」
重い沈黙を破って、一人の使者が口を開いた。

「存じております。
泊瀬の斎女には天皇さまのご息女、十市皇女さまが立たれると聞いております」

「斎王さま……」
中央に座っている使者が唸るような声を漏らし、髭をさすった。
「十市皇女さまが自害なさいました」
異常なほど、静かな声で使者は告げた。

「ま…」「いや…っ」「きゃっ」
 後ろに控えていた女人が声にならない声を出して、袖で顔を覆った。

「今日は十市皇女さまにとってめでたい門出となるはずでございました。
それで、天皇さまがおん自ら、潔斎所に籠っておられる皇女さまを迎えにいらしたのです。
しかし、いくら戸を叩いて、お名を呼んでも、一向に返事がありません。
身支度をなさっている物音さえ聞こえないので、
不審に思ってやむをえず戸をこじ開けて中に入りました。しかし…」
使者は溜め息をついた。

「しかし、
そこにおられたのは、血みどろになって倒れている十市皇女さまでした。
皇女さまの側にいた女官の話によると、
十市皇女さまは、前の晩まで泊瀬へ行って斎女となることを楽しみにしておられたとのことでした。
信じがたい話ではありますが、潔斎所の門前には絶えず警備の者がおり、
部屋のすぐ前にも数人の女官が待機していたとのことです。
外からの侵入者がいたとはとても考えられません。
皇女さまは、物音一つたてずに一人で亡くなられたのです。
お手には、研ぎすまされた刃物が握られていました。
駆け寄るように部屋へ入られた天皇さまは、
皇女さまのお身体を抱き上げられ、
十市、十市と何度もお名を呼ばれ、涙を流されました。
しかし、我々はもはやなす術がございませんでした。
十市皇女さまは、
二度ほど苦しげに咽をならして口から血を吐かれると、そのまま絶命なさいました」
 言い終えた途端、使者は喘ぐように息を吸い、目を伏せた。

 女人たちの啜り泣く声が聞こえる。

「して、泊瀬への行幸はどうなったのですか」
皇女は静かに問いかけた。

「ご行幸は中止でございます。
肝心の斎女がおられないのでは仕方がありません」

「そうですか。
どなたか他の皇族が代わりに立たれるということはないのですか。
天皇はいかがお考えでしょう」

「天皇さまは悲しみのあまり錯乱しておられます。
新たな斎女の卜定も、伊勢から勧請した殿社の管理も、
十市皇女さまを静かに葬ってから考えるとのことでございます」

「そうですか」
皇女は思わず息をついた。

「しかし、我々といたしましては、
新たな斎女の卜定はもう行われないのではと思われます」

「そう。でしたら、斎宮寮として行うべきことは今のところありませんね」

「はい。十市皇女さまの安楽をお祈りください。
では、斎王さま。
お手数でございました」
使者は静かに頭を下げた。

「そなた達もご苦労でした」

 皇女は人数分の白湯を持ってくるように女人に言い付けた。
使者たちはものも言わずに配られた白湯をすすっていた。

「あ、斎王さま」
一人が思い出したように口を開いた。

「何でしょう」

「このことはまだ内部の者にしか伝えていません。
公に知らせるのは数日後のことだと思いますので、それまでは、内密にお願いします」

「分かりました。
斎王として秘密は守りましょう」
皇女が言い終えると、使者たちは部屋を後にした。

「もう今日は寝んでよろしいから、部屋へ戻りなさい」
皇女が命じると、緊張と恐怖で銅像のように固まっていた女人たちが
我に返ったようにすごすごと退室していった。

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▼物語への一言感想をお願いします♪        かきこめ〜る Ver.2.011 by St.Night Moon

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