迷    妄   <系図を見る>

その1

===== 序 =====

激痛のあまり掻きむしった腕から、噛みつぶした唇から、
そして脚と脚の間から、真っ赤な鮮血が噴き出た。
身を切り裂くばかりの激痛に、
怒りも、哀しみも、喜びも、大凡すべての感情が、皇女の頭から遠のいていった。
ただ、まだしも耳だけは聞こえているらしく、女の低声が玉響に聞こえる。

「十月十日と申しましても、ほんの短い間でしたね」
「途中で何かありましたら……」

 サーっと、背筋をさするような水音が聞こえる。雨の音なのか、
血が迸る音なのか、もはや分からない。

「門の外をご覧なさい」

「宮殿からの遣いが先に来てしまったようです。
せめて、一夜なりともご一緒に…と思っておりましたのに」
 
皇女(ひめみこ)は脱力した。
次の瞬間、遠のいていた怒りと哀しみが濁流のごとく押し寄せてきた。
次のいきみで死んでしまうだろう。
自分が、ではない。
腹の中の赤子が。
産むまいと思う。
しかし、赤子は皇女に抗うように下へ下へと降りてくる。
―身が凍り付く激痛とともに、生温かい凝血が通過した。



「皇女さま、お生まれになりましたよ。お元気そうな男の子です。皇女さまの弟君ですよ」
 喜びをうかべた女人が二歳になったばかりの皇女に早口でそう告げた。

「わたくしの弟?」

「ええ、そうですよ。
先ほど大田皇女
(おおたのひめみこ)さまがご出産遊ばしたのです。
さあ、皇女さま。こちらにいらっしゃいまし」
 言われるままに皇女は釆女に手を引かれ、大田皇女の産室に向かった。

「おお、大伯
(おおく)姫。そなたの弟の大津皇子(おおつのみこ)だよ」
 皇女の姿を見るなり満面の笑顔でそう言った父、大海人皇子
(おおあまのみこ)はもちろん、
母の大田皇女もいつになく嬉しそうだった。
出産で疲れているらしく口はきかなかったが、皇女の姿をみると、柔和に微笑んだ。

「さあ、大伯姫。大田は少し疲労しているようじゃ。
弟の顔を見たら向こうで遊んでくるがいい」
 大海人皇子は照れたように言った。

「では、皇女さま。参りましょうか」
 
皇女が部屋を出たのを確認すると、
大海人皇子は目を閉じて眠っているらしい大田皇女に話しかけた。

「大田姫。よく産んでくだすった。
我も男皇子がこんなにも愛しいものとは知らなんだ」
大海人皇子はそう言いながら大田皇女の頬に手を当てた。

 まあ、妹の鵜野
(うの)が草壁皇子(くさかべのみこ)を産みましたのに、
と大田皇女は一瞬思ったが、大海人皇子の手の温かさにそんな蟠
(わだかま)りも消えていった。

「どうしたのだ、大田姫。相当疲れているようだな」

「いえ、あなた。そんなことありませぬ」
大田皇女は咄嗟に言い繕ったが、
出産前のふくよかだった横顔からは、いくらか肉が落ちているようだった。

「そうか、ならば良かったが。
そなたはあまり丈夫でないのだ。もっと身体をいたわらねばな」

「はい、嬉しゅうございます」
 
大田皇女は後の天智天皇、中大兄皇子
(なかのおおえのみこ)のむすめで、
同母妹の鵜野皇女とともに大海人皇子の妃となっていた。
そして、姉妹それぞれ夫の愛を享け姉は大伯皇女と大津皇子を、
妹は草壁皇子を産んでいた。

 大海人皇子には、大田皇女と鵜野皇女の他にも数多の側室がいて、
九州の豪族のむすめ、尼子娘
(あまこのいらつめ)は大海人皇子の長男、高市皇子(たけちのみこ)を産んでいた。
 大田皇女は、自分の子を後継者にと格別強く思ったことはなかった。
しかし、尼子の高市や、鵜野の草壁に続いて、
己が腹に夫の血を引く皇子を成した喜びにつかのま酔っていた。

「大田姫、我にそっくりな元気な赤子だ」
大海人皇子はそう言いながら大田皇女の髪を撫でた。

いつもはやや血虚気味で青白い顔色をしている大田皇女が、
皇子を産んだ喜びに頬を赤らめているのを、普段にもましていとしく思った。
 平等の待遇を与えてはいても、男まさりで成熟にはほど遠い鵜野皇女より、
穏やかな品を感じさせる大田皇女の方に大海人皇子の心は傾いていたのだ。

「大田姫、名残惜しいが我はそろそろ仕事だ。この辺で失礼しよう」

「はい、あなたさまとつかの間話ができて姫は幸せでございました」
大田皇女の女らしく余情ある返答に大海人皇子は満足して部屋を出た。

「だれか、皇子さまがお帰りになりますからお見送りを」
大田皇女は、酔いが醒めたように釆女に命じた。

「はい、ただいま。ところで姫さま。
大伯皇女さまが母上に会いたがっていられますが」

「ええ、大伯姫にも大津の顔を見せてやりたい。ここに通しておくれ」

「分かりました。さあ、皇女さま、こちらへ」
皇女はたどたどしい足取りで、母のそばへ歩み寄った。

「大伯姫、弟の大津皇子ですよ」
 皇女は、生まれたばかりの弟に見入った。
僅か二歳の差ではあったが、弟をみる皇女の眼は姉としての情に満ちていた。

「弟がかわいいですか、大伯姫。産まれたばかりではまだ見苦しいでしょ」
 大田皇女が微笑しながら皇女に話しかけた。

「いいえ、お母さま。わたくしは大きくなったらこの子の妃になりたい」

「まあ、大伯姫」
 大田皇女はまだ幼さの残る皇女の顔を見て笑った。
続いて、周りにいた女人たちが次々と笑い声をあげた。

「あの、大田皇女さま。鵜野皇女さまがお祝いを持ってお出ですが」
 御簾の陰から、采女
(うねめ)の甲高い声がした。



その2     <系図を見る>

「まあ、鵜野が来てくれたの?」
 鵜野皇女は、大田皇女の同母妹であり、皇女にとっては叔母にあたる人だ。

「姉上、お祝いに参りました」
 鵜野皇女は、持ってきた数多の品物を大田皇女に差し出した。

「ありがとう。せっかくいらしたのだから、ついでに大津の顔を見ていってくださいな」
「せっかくですが姉上、わたくしは急ぎますので」
 鵜野皇女はそう言い放つと、突然大田皇女の顔を睨み付けた。

「そうですか。では又の機会にしましょう」
 大田皇女はたじろいた様子も見せない。

 一方、突然の来客に、母の大田皇女に寄り添うように立っていた皇女は
鵜野の殺気に身をこわばらせていた。
言葉にも出せず、押さえ込むにはあまりある鵜野の嫉妬は、
鋭く細かな棘となり、皇女の心を苛んだ。
 いくらか時が経って鵜野が目をそらして帰り支度をはじめると、
今度は鵜野のいやに骨張った後ろ姿が目に入った。
まだ幼女である皇女が女人の容貌を気にすることはほとんどなかったが、
母と鵜野では格段に母の方が美しいと思った。

 二人の夫である大海人皇子の評価も同じだったらしい。
大海人皇子をめぐる大田皇女と鵜野皇女の女の戦では
明らかに大田皇女の方が優位に立っていた。

 五年前のある日、大田と鵜野の姉妹は、
そろって大海人皇子のもとに輿入れした。
大海人皇子はまず、姉の大田皇女の手をとり、翡翠
(ひすい)の硬玉を握らせた。
生まれて初めて男というものを目の前に見て、
今にもこぼれ落ちんばかりの白い頬を真っ赤に染めて恥じらう風情は、
二歳の年の差があるにせよ、とうてい鵜野皇女が太刀打ちできるものではなかった。
 
その日からすでに大海人皇子の心は大田皇女に傾いてはいたが、
年月を重ねるうちに、鵜野皇女はなんとしてでも大田皇女より優位に立ってみたいと思いはじめた。
それがかなわない鵜野の苛立ちは様々な形で現れたが、
我が子、草壁皇子と僅か一歳違いで大田皇女が大津皇子を産んでからというもの、
その苛立ちは頂点に達したのかもしれない。

「大伯姫、どうしました? お腹が空いたのかしら」
 大田皇女とて鵜野の苛立ちを知らないはずはないが、
皇女に話しかける口調は普段と変わらず優しげだった。

「何でもありません。お母さま」
 皇女はそう言いつつも、怯えたように大田皇女の裳をつかんだ。



「大田皇女さま。大海人皇子さまのお渡りです」
 いつもの女人の声がする。

「さあ、皇女さま。大田さまは少し御用がおありですからね。
朝までこちらにいましょうね」
 釆女が皇女の手を引いて奥の部屋へと向かった。
 
夕方、女人が父の来訪を知らせると、皇女は決まって奥に連れていかれる。
父と母が自分の知らないところで何をするのか知らなかったが、
父が訪れる日は、嬉しいときのように、
また、とてつもなく怖いときのように、妙に気が逸り、
決まって怖い夢を見た。

「大田姫」
 大海人皇子は、御簾をあげて、大田皇女の部屋へ入った。
手にはきらきらしい祝いの品々があふれている。

「あなた、お待ちしてましたわ」
 大田皇女は、大海人皇子の持っている品物に目をとめた。
 こんなにお祝いをくだすって嬉しゅうございます、
と言おうとして、大海人皇子に顔を向けると、大海人皇子の方が先に口を開いた。
「大田姫。今日は鵜野姫が祝いを持ってきたそうだな」
「はい、ついさきほど」
 大田皇女は答えた。

「そうか、それはよかった。
今日は額田王
(ぬかたのおおきみ)から祝いの品を預かってきた。
今は疎遠がちになってしまったが
昔親しくしてもらったそなたにぜひ祝いだけでも渡したいと言っておった」
 
それを聞くと、大田皇女の顔からいっせいに血の気が引いていった。
 額田王というと、今は大田皇女たちの父、中大兄皇子の女になっているが、
大田皇女が嫁ぐ前は大海人皇子の妻で、
中大兄皇子の後宮に入った今でも心は大海人皇子と繋がっているのではないか、
と評判の女人だ。
大海人皇子の最愛の女人は額田王ではないか、という人さえいる。

「どうした、大田姫。何かあったのか」
 大田皇女は弥が上にも廊下で見かけた額田王の普段にもまして艶やかな唇や媚びるような目元、
見事なまでのぬばたまの黒髪を思い出した。

「大田姫。本当にどうしたのだ」
「いえ、何でもありませぬ。しかしその品々はお受け取りできませぬ」

「大田姫…」
 今まで自分のいうことに反抗することなどなかった大田皇女の一言に大海人皇子は困惑した。

「どうしてだ大田姫。額田はそなたの出産を心から祝っておる」
「このようなものを頂く理由がありませぬ」
 咄嗟にそう言い返した大田皇女の頬を涙が伝った。

「大田姫、どうした。額田は何も遠慮することなどないと言っておった」
 額田は、額田は、と繰りかえす夫の声に大田皇女は激しい目眩に襲われた。

「大田姫。どうした、何を泣くのだ」
 大田皇女の涙に気付いた大海人皇子は後方から大田皇女を抱こうとした。
大田皇女は大海人皇子の手を白い腕で拒絶した。

「今日は気分が悪いので失礼します」
 大田皇女は涙ながらにやっとそれだけ言うと、逃げるように奥の部屋へ行ってしまった。

 それからどれだけの時が経ったか、夜闇がいっそうその色を濃くした頃、
奥の部屋で寝んでいた皇女は騒がしい足音に目をさました。



その3     <系図を見る>

「何かあったのかしら」
 皇女は大田皇女の寝室に向かっていった。
「ああっ、皇女さま。なりません」
 真っ青な顔をした女人が困惑しきった声を出した。
その手には血で真っ赤に染まった布が握られている。
「何があったのですか? あっ」
 皇女は呆然と立ちすくんだ。

「お母さま!」
 次の瞬間、皇女は止めんとする女人の手を振り払って大田皇女の傍らにいった。
 大田皇女は、皇女の姿を虚ろな目で見つめると、再び激しく咳き込んだ。
髪は乱れ、血の気が失せて蒼白な顔になっている。
口元を押さえた指の間から真っ赤な血があふれだした。
早く布を、いや、それより薬湯を、と叫ぶ悲鳴にも似た女人たちの声と、
大田皇女の激しく咳ぶく音、
喀いた血を拭くための布を取りにいく足音で辺はひどい騒ぎになっていた。
 
憎い、額田王が憎い。
大田皇女は自らの腕に爪を立てて身悶えた。
 額田王は父の妻になったのではなかったのか。
美しくて才気煥発な額田王を大海人皇子が忘れかねているのは仕方がない。
でも、今さら祝いなどを持ってきて自分に対抗しようとする額田王の気持ちが分からない。
 否、女人とはそういうものなのかもしれない。
父の妻となりながらも女としての盛りを共に過ごした大海人皇子を忘れられないのは仕方がないことかもしれない。
 額田王の美貌や才気は自分が一番よく知っていた。
 もしかしたら、憎みながらもその才を認めてしまう自分の無力こそが恨めしいのかもしれない。

「あ…」
 妄想にとらわれていた大田皇女は、
傍らに立っている娘に気付いた。
「大伯姫…。誰か、大伯姫を奥へ」
 我に返った大田皇女の声に、
何人かの女人が皇女を奥の部屋へと連れていった。
 
皇女が奥へ行ったことを見届けた途端、
大田皇女はまた咳き込んでせぐりあげてくる血の塊を喀き出した。
「大田さま、大田さま」
 せわしない女人の悲鳴が聞こえる。
大田皇女は次第にその悲鳴も聞こえなくなり、眠りに落ちていった。
 
次に大田皇女が目覚めたときには、もう一番鶏が啼いていた。
「お母さま、昨日の夜はどうされたのですか」
 回らない舌で自分を気遣う皇女に大田皇女は安らかな笑みを取り戻し、
「いいえ、大丈夫。何でもないのよ」
 と言った。



「大伯姫」
 不意に、背後から声がした。
男の声のようだが、父ではない。
この声は大田皇女の父、すなわち皇女の祖父の中大兄皇子だ。

「お祖父さま。お母さまが」
「大丈夫だ。大伯姫。母さまは大丈夫だ。たいしたことはない」
 皇女にその場しのぎのようにそう言うと、
大田皇女に大海人はどこへいった、と問うた。
「大海人皇子さまはお帰りになりました」
 大田皇女は顔を伏せたままそう答えた。

「もう帰ったのか?」
 中大兄皇子は怪訝そうな顔をした。
「いえ、お父さま。わたくしが帰したのです」
「そなたが帰したと?」
 中大兄皇子は不可思議な顔をして目を宙に浮かせた。

「お父様。わたくしは身体が悪いのです。
病気が伝染ってはいけないと思ってそうしました」

「そうか、大田姫。それは聡明な判断だった。
大田姫、我はそなたを愛している。
しかし、そなたの病は人に伝染る。
暫くは大海人との逢瀬をひかえてはくれぬか」

「お父様…」
 大田皇女は考え込んだように顔を伏せた。
咽もとを時折震わせながら、生温かいものが通ってゆく感覚は、
夜が明けた今でも咽に物が挟まっているような違和感として残っていた。
身体は熱っぽく胸のあたりが何とも言えず重苦しい。
我が子を腕に抱く朝も、夫に抱かれる夜も、もう来ないかも知れない。

「大田姫、そう悲観することもあるまい。
そなたはまだ若いのだからすぐに快くなる。それまでの辛抱だ」
 大田皇女は息をついた。
父の言葉に、緊張の糸が切れたのかも知れない。 

「分かりました。父君の仰せのままにいたします」
 大田皇女は、思い切った声で言った。

「そうだ、辛いだろうが暫くは我慢してくれ。
我はこれから大海人に会いにいってその旨を伝えてくる。
そなたは心静かに寝ていなさい」
 中大兄皇子は安堵したような笑みを浮かべ、
高い声でそう告げると部屋を出た。
 
そして大海人皇子にも同じようなことを告げたらしい。
大田皇女は夜になると、最愛の夫から暫くの離別を告げられねばならなかった。
我はそなたの病を気遣っているからこそこう言うのだ、
暫くは病の快復に心を砕かねばならぬ、
余計な物思いは病状を悪化させるだけなのだから、
心静かに療養しなければならぬ、と大海人皇子の言うことは、
父の中大兄皇子から聞かされたものと、ほとんど変わらなかった。
 
それから、おそらく父が話したのだろう、
父の妹で大海人皇子の姉、大田皇女の叔母にあたる間人皇女がこの病で血を喀いて死んでしまったという話も聞かされた。

「分かりました」
 断腸の思いでそう言った大田皇女に残されたのは、
死への秒読みの日々だけだった。
 大海人皇子はもちろん、皇女とも、大津皇子とも会えないまま、
身繕いさえままならず、一日中咳をしながら病床に臥す毎日だった。
 大田皇女の心を慰めるものといえば、
母を心配する皇女が辿々しい字で書いた文と、
夫が何処で何をしているのかは知らないが、
妹の鵜野皇女のところへ行く回数が増えたということだけはないという女人の噂話だけだった。
 
それもこれも、額田王に嫉妬した結果なのか、
人を恨むということは、愛するということはこんなにも罪が深いのか、
と咳と痰の合間に大田皇女は己が罪の深さにおののいた。
 
夫も父も、口をそろえて心静かに療養しなさいというが、
こんな日々を送っていて心静かな時など、一時もありはしない。
これからもそんな日々が訪れることなどないに決まっている、
とこれから待っている月日を思い涙した。
 
ところが、大田皇女の予感は当たらなかった。



その4     <系図を見る>

身体が徐々に病に蝕まれていき、
眠っているわけでもないのに、ふっと気が遠くなることが時々起こった。
しだいに、女人たちがよびかけても意識をとりもどすことができなくなっていった。
身を尽くして俗世のことを思う時間はとぎれとぎれになり、自然と短くなっていった。

或る日、大田皇女は突然高熱を出し、
熱が下がったと思うと、激しい下痢を見た。
食欲は依然なく、栄養失調から日に日に体が弱って、
気を失ったまま、眠り続けることになった。
完全に意識を失っても、
なにかに取り憑かれてでもいるかのように、大田皇女の命はこときれず、
何か月も寝台の上で生きながらえた。

しかし、皇女が七歳、大津皇子が五歳になった年の冬、
ついに大田皇女は二十年余の生涯を終えた。

「皇女さま。こちらにいらしてください。母君さまがお呼びでございます」
 女人の声に、弟の大津皇子と遊んでいた皇女は不意に振り返った。
 何年か前の或る日から、皇女は母と会っていない。
幼い時の記憶は今ではもう朧げに翳んでいたし、
弟の大津皇子に至っては、母の顔さえ知らないだろう。

「本当にお母さまがお呼びなのですか」
 皇女がそう問いかけると、女人は顔を伏せ、わっと泣き崩れた。

「そんな、お母さまが…」
 皇女は突然のことに立ちつくしていた。

「皇女さま、皇子さま。母君さまに最期のお別れをなさってください」
 皇女は大津皇子の手を引くと、
女人の後ろについて、大田皇女の病室へ向かった。
何が何かも分からない風情の弟をみて、皇女の目から涙が伝った。

「お母さま、お目を開けて」
 皇女は母の寝台に近付いた。

 しかし、次の瞬間、皇女は余りの衝撃に小さく声をあげた。
大津皇子にいたっては声を出して泣いていた。
 長い間、食事もとることができずに、咳と喀血、下痢まで起こしながら病臥していた大田皇女の頬は痩せこけ、
目はとび出、手足は骨が露わになって青筋がたっていた。

「………」

 言葉を失っている皇女のまわりで、女人たちの啜り泣く声がしきりに聞こえた。
 皇女は、病に蝕まれた母の身体を凝視していた。
やがてその身体は、じわじわと翳んでいった。
皇女の涙が頬を伝って床にしたたり落ちた。

母のあまりの変貌に、怯えたように皇女の裳をつかんでいた大津皇子も、
周りのただならぬ様子に顔をゆがめた。
 皇女と大津皇子が奥の部屋に連れていかれた頃、
大海人皇子に中大兄皇子、それから鵜野皇女が次々と弔問に訪れた。

「大田姫、どうして…どうしてこんなになる前に知らせてくれなかったのだ……っ」
 大海人皇子は妻の変わり果てた姿に人目も憚らず泣き崩れた。
 鵜野皇女も、姉の壮絶な死に顔を見て、流石に言葉を失って立ち尽くしていた。
 中大兄皇子は、娘の姿を見るなり、音もなく床にすわり込んだ。
病んだ娘に、愛する夫との逢瀬を禁じたのは確かに中大兄皇子自身だ。
 もちろん、心が痛まなかったわけではないし、
大田皇女の淋しさを思い遣らなかったこともなかった。
それに、人に伝染る病をもっている以上、
どんなに愛する人であっても面会は避けるべきであり、
中大兄皇子の判断は誰が見ても正しかった。

中大兄皇子が一番衝撃を受けたのは、大田皇女の変わり果てた姿だった。
 中大兄皇子は、大田皇女がどんな病を患って、
その病がどれほど恐ろしいものであるかは十分分かっていた。
 しかし、同じく胸を病んで血を喀きながら死んでいった妹、
間人皇女の死に顔が頭から離れなかったのだ。
 間人皇女は、母も父も同じくするただ一人の妹であると同時に最愛の女人でもあった。
 間人は十七で結婚し、后となり、中大兄皇子にも数多の女人がいたが、
間人皇女に対するような気持ちにさせた女人は今まで一人もいなかった。
 その妹が、胸を病み、やせ衰えていく様は、あわれであったが、しかし美しかった。
折れそうな白い首を曲げて咳き込む姿も、
熱の下がるとき、寝汗にしとど濡れている様も、
命の終焉のときの顔すら、たとえようもなく哀婉で美しかった。

間人皇女ほどではないにしても、美貌であった大田皇女は、
同じようにあわれ深く死んでいったのだと、中大兄皇子は勝手に想像していた。
それだけに、大田皇女の死に顔に誰よりも衝撃を受けたのは中大兄皇子だった。

「いいか、大海人」
 中大兄皇子は重たげに口を開いた。
「これから額田王もその他の弔問客もたくさん来るだろう。
しかし、大田姫と会わせてはならぬ」

「分かっております、兄上。大田姫の墓はこの月の内に造り、身内だけで丁寧に葬ります」
 大海人皇子も、涙ながらにそう答えた。
 
それから、大田皇女の墓は、間人皇女の墓のすぐ近くにつくられ、
中大兄皇子や大海人皇子たちによって静かに葬られた。

大田皇女の喪が明けると大海人皇子は中大兄皇子の娘で、
大田皇女や鵜野皇女の異母妹である大江皇女と新田部皇女を続けて妃とした。
「迷妄」 完

「湖畔」へ続く

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▼物語への一言感想をお願いします♪        かきこめ〜る Ver.2.011 by St.Night Moon

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