2004.2.14
阿修羅に逢いたくて・・・
奇しくも今日はバレンタインデー、
阿修羅に逢いたくて、奈良・興福寺に行って来ました。
(阿修羅は、チョコは受け取ってくれないでしょうが・・・)
さっそくかわいい鹿ちゃんのお出迎えで〜す! あまりに毎度のことなので、 もう聞きたくもないでしょうが、 只今の時間はちょうど正午。 今回も、ぐずぐずと朝寝坊して、 出発は11時前だったのです〜〜〜(>_<) ↑ 懲りないヤツ! |
わ〜〜〜お腹すいた・・・
何を置いてもまず腹ごしらえ!
お金もないし、時間もないし、今日はカレーライスです。
(こちらも毎度のことですね〜^^;)
さあ、お腹も落ち着いたところで、興福寺の散策です!
興福寺の前身は飛鳥の「厩坂寺」であり、さらにさかのぼると天智朝の山背国「山階寺」が起源だそうです。 山階寺は、天智8年(669)に藤原鎌足が重い病気を患った際に、夫人である鏡大王が夫の回復を祈願して、釈迦三尊、四天王などの諸仏を安置するために造営したものと伝えられております。 その後、壬申の乱(672)ののち、飛鳥に都が戻った際に、山階寺も移建され、その地名を取って厩坂寺とされました。さらに、平城遷都の際、和銅3年(710)藤原不比等の計画によって移されるとともに、「興福寺」と名付けられたのだそうです〜(^。^) |
鏡大王といえば、もともと中大兄皇子の夫人であったのに、
本人の意思とは関係なく、寵臣の鎌足に譲り渡された・・・という話が有名ですが、
こうして夫の病平癒にお寺を建立したということは、
後に、この2人の間にも愛情関係が生まれた・・・ということなのでしょうか〜?
わ〜〜〜またまた、妄想に入ってしまいそうですぅ〜
南円堂(なんえんどう)正面 |
裏から見た南円堂 ↓ ↑ 南円堂の屋根飾り |
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南円堂は、西国三十三所第九番札所にもなっております。 弘仁4年(813年)、藤原冬嗣(ふゆつぐ)が父内麻呂(うちまろ)追善のために建てたそうです。 4度の焼失を経て、現在の建物は江戸時代(1741年)のものだそうですよ〜 が、江戸時代の建物といっても、その手法はきわめて古様で、 再建には北円堂を参考にしたのであろうということです。
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ぱいんは、昨年薬師寺を訪れたとき、御朱印張を購入いたしました。
無印(?)なので、西国三十三所とかじゃなく、
どこでも、そこそこ有名どころの寺社なら御朱印をもらえます。
参拝の日付も入れてもらえるので、いい記念になります〜
(皆さまにもお勧めです〜〜〜)
が、いつも持っていくのを忘れるんですよね〜(>_<)
今回はしっかり持っていったので、南円堂で御朱印をいただきました〜♪
南円堂を見学して、三重塔に向かう途中、下の写真の石を見ました!
宝蔵院胤栄 摩利支天石
この石については、何も縁起が書いてなかったので、
家に帰ってきてから、調べてみたのですが・・・
まず、摩利支天を広辞苑で調べてみると・・・ =========================== もとインドで、日月の光や陽炎を神格化したもので、日本では、武士の守り本尊とされた・・・とありました。 |
次に、この写真ではほとんど読み取れませんが、石碑に刻まれている宝蔵院胤栄について・・・ =========================== 興福寺の僧であり、柳生新陰流剣術ともに、 奈良を発祥地とする武道である宝蔵院流槍術の流祖だそうです。 猿澤の池に浮かぶ三日月を突き、十文字鎌槍を創始したと伝えられております〜(す、すごい) -------------------------------------------------- 宝蔵院は興福寺の子院で現在の国立奈良博物館の位置に江戸時代末まであったそうです。 が、明治初年、廃仏毀釈の嵐に遭遇し、上屋は取り壊され敷地は国に没収されてしまいました。 そして摩利支天石は廃墟と化した宝蔵院跡地にまつる人もなく、取り残されていたそうです〜(>_<) -------------------------------------------------- この話を聞いた奈良市高畑菩提町・石崎直司氏の曾祖父で漢方医であった勝蔵氏が、 残念に思い自宅に移して供養し、「お石さん」と呼び、 以後、百十二年の間、石崎家で大切にお祭りされていたそうです〜! --------------------------------------------------- そして、平成11年、 石崎家からの寄贈を受け、 現在は、ここ興福寺で鎮座しているというわけです。 (400年もの長ーい旅だったのですね〜) |
なんだか今回は、本当にさわりだけになってしまって申し訳ありません〜(汗)
ゆっくり調べながらアップしていきたいと思いますので、
どうぞ、気長にお付き合いくださいませ〜〜〜m(__)m