[PHOTO集]垂水神社
2004.06.09


大阪府吹田市垂水町一丁目

この垂水神社は、ぱいんの住むマンションから自転車で15分弱のところにあります。
ホントにご近所さんです!
なのに、訪れたのは今回が初めてで・・・(^^ゞ

なぜ、改めてここを訪れたかといいますと、
実はこの神社の滝が、万葉集の、あの志貴皇子の有名なお歌、
「いわばしる・・・」の舞台ではないかという情報をキャッチしたからなのですーっ

本   殿
今から約1100年前の延喜年間(907年)に、律令の施行細則として延喜式が定められました。

これにより、神格が認められた神社を
式内社(しきないしゃ)といいます。

垂水神社は、
式内大社に列せられている由緒ある神社なんですよ〜☆

 ちょこっと神社の縁起を紹介しがてら、
面白い逸話を一つ、お話ししたいと思います。

このあたりには土着の豪族「垂水君」一族が住んでおりました。
垂水君の祖は、この神社のご祭神・
豊城入彦命の四世孫である賀表乃真稚命(かほのまわかのみこと)と伝えられています。
この賀表乃真稚命の六世孫にあた
る阿利真公(ありまこう)がお話の主人公です!


時は、 孝徳天皇の御代、
全国的な干ばつが続き、河川も井泉も枯渇してしまいます。
そこで阿利真公は高樋を作って垂水の岡もとから宮中にまで水を導き、
天皇のための飲料水を供給!
天皇はその功を賞して「垂水公」の姓を賜り、また垂水神社を司らせましたー!!

『新撰姓氏録』より


豊城入彦命…第10代崇神天皇の皇子
孝徳天皇…大化の改新のあと、皇極女帝の譲りを受けて皇位につく。
          皇極女帝の弟。 中大兄皇子の叔父にあたる。

当時の宮は、難波に置かれておりました。
ここから難波までは、直線距離にして約10km
両者の海抜差は5mくらいだそうです。
途中には障害となる山や丘陵はなく、
論理の上では、樋を通して水を供給することは可能だそうです。
でも、途中には3本の川があり、川の海抜は0mに近く、
ここでは、人力による揚水装置(つるべなど)を設けるなどしたであろうということです。

ものすごい大工事です!!
もしこの逸話が真実なら、
天皇はじめ宮廷貴族たちはさぞ驚き、また感動したでしょうね〜♪



← 垂  水  遺  跡 ↓




神社一帯に広がる弥生時代を中心とする集落遺跡です。住宅開発が進んだため、神社裏山の境内地に面影を残すのみだそうです〜(>_<)

竪穴住居4棟、高床式建物跡、焼土坑などが確認されています。

垂水遺跡では、弥生時代中期後半からムラとしての規模が大きくなって、後期まで人々の生活が続いていたそうです。この時期は、
ムラの統合が進み、クニの成立をみる時期で、この頃の大阪湾岸の動きを考える上でも注目される遺跡だそうですよ!

このあたりは、よく言えば賑やか、悪く言えばごみごみとしたところです。
でも、そんな昔から人が多く住むところだったんですねーっ




説明がなかったのでよく分からなかったんですけど、
大己貴神少彦名命が奉られている相殿かな?

この井戸についてはどういう由来があるのか全く調べられておりません・・・

平日の昼間ということもあり、境内にいたのはぱいんだけで、
しかも、入梅にもかかわらず晴天に恵まれ、
とても気持ちよく過ごすことができました!
境内は静寂に包まれ、外の喧噪がウソのようです〜〜〜☆

えっと、ちょっと長くなっちゃってので、
肝心の垂水の滝については次回に譲りたいと思います!
次回も読んで下さればうれしいです〜〜〜♪

(続  へ)


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