[PHOTO集] 吉野
2006.10.08

人混みが苦手なぱいんは、
桜も紅葉もない吉野に、今ならすいているだろうと、あえて出掛けたのでありました☆

蔵王堂

吉野が世界遺産に登録されたおかげで、よくテレビの旅番組に登場する建物ですが…。

今は季節でないので判別は難しいですが、
正面の石の柵に囲まれた中に、4本の桜が植えられています。

ここは、1333年3月3日、
後醍醐天皇の第二皇子、大塔宮護良( もりなが)親王が、
鎌倉幕府の大軍に攻められて吉野山に立てこ もった際、
落城に際して、最後の酒宴を開いたところなのだそうです。

このとき、宮に従っていた村上義光は、
酒宴も終わり、いざ決戦 というときに、
宮の鎧甲を身につけて、その身代わりとなり、
腹を一文字に切って壮烈な最期を遂げたのだそうです。
宮はこの隙 に、無事に高野山に落ちのびることができたのだそうですよ。

悲しい歴史の一面ですね・・・。


吉水神社

元は『吉水院』といい、天武天皇の白鳳年間に役行者が創建したものと伝えられる格式の高い僧坊です。
が、明治8年に寺号を廃して吉水神社と改められました。

ここでは、3つの違う時代の歴史を垣間見ることができます。

まずは、源義経が、兄頼朝の迫害を逃れて、弁慶や静御前と供に身を隠したのが、ここ吉水院だそうです。
また、後醍醐天皇が、京の花山院を逃れて、最初に行宮をしたのも、ここ吉水院です。
時代は降り、1594年、豊臣秀吉が盛大な花見の宴を催したのも、ここ吉水院だそうですよ。

後醍醐天皇の玉座のあるお部屋

義経と静御前の愛のお部屋
どちらもちょっと嘘くさい…。
わ〜〜〜ごめんなさい!!

吉野朝宮跡

今は、このような石碑が建っているだけですが…。
ここが、かつての吉野朝の宮の跡地です。
元は、実城寺というお寺だったそうで、この付近には、
当時、大小20にも及ぶ寺院があったそうです。

最初吉水院(上の記事参照)を行宮 とした後醍醐天皇は、
その中でも最も広い実城寺に行宮を遷し、
足利幕府と北朝に対抗する南朝方の拠点としたそうです。

天皇は 、寺号を金輪王寺と改め、
ひたすら京都快復を目指しましたが、
1339年8月に病を得て、52才で悲運の生涯を閉じました。

余談ですが、徳川時代になると、
幕府は、金輪王寺の寺号を没収 して日光に移し、
お寺は、元の実城寺となって明治を迎えました

が、廃仏毀釈の嵐にあって廃寺となってしまったそうです。


如意輪寺

吉野に逃れた後醍醐天皇が、吉野朝の勅願所としたお寺です。

裏山には、天皇が葬られている塔尾陵があります。
塔尾陵は、
「身はたとへ南山の苔に埋むるとも魂魄は常に北闕を 望まん」と、
都を憧れつつ崩御した天皇の想いにより、
京を望ん で、北向きに造営されております。
(北向きの御陵があるのは、唯一この塔尾陵のみです)

この如意輪寺は、もう一つ、吉野朝にまつわる悲しい歴史の舞台となりました…。
時代は少しだけ降って、後醍醐天皇のあとを継いだ、次帝村上天皇の御代。

追いつめられた吉野朝は、
1347年、楠木正行(楠木正成の子)が、
一族郎党143名と供に、四条畷の決戦(足利の武将、高師直との戦)に向かいます。

万に一つも勝ち目のない戦でありながら、でも戦わねばならない…。
正行は、出発前、吉野の居にて天皇と今生の別れを告げ、
塔尾陵に参拝の後、
ここ如意輪堂に詣で、髻を切って仏前に奉納、過去帳に名を記します。
(過去帳とは、亡くなった人の名を記すものです)

そして最後に、御堂の扉に、
かゑらじとかねておもへば梓弓 なき数に入る名をぞとむる
(今度の戦いは生きて帰れぬ身であるがゆえに、亡き人の仲間入りをする名を残して出発します)
との辞世の歌を、鏃を使って刻んだそうです。

四条畷にて弟正時とともに最期を遂げた正行は、まだ23才の若さだったそうです。

現在の建物は、約350年前の再建ですが、
正行が辞世を刻んだ扉は、寺宝と宝物殿に保存されているので、
ぱいんもしっかり見て参りました。

いったい彼はどんな想いで、この歌を刻んだのでしょうね。
彼の人生の中で、嬉しかったことや楽しかったことは、どのくらいあったのでしょう…。

初めて吉野に行った感想は、
世界遺産として登録された意味にかかわらず、
吉野は、そのほとんどが、南朝の秘話に彩られていたということでした。

ここにても雲居の桜咲きにけり ただかりそめの宿と思ふに

最後に、後醍醐天皇のお歌をご紹介して、今回のPHOTO紀行をしめさせていただきます。

と思いましたが・・・

最後の最後に、
吉野の美しい小山の写真を一枚。
この山が春になると、お山全体がピンク色になり、
さながら、日本昔話に出てくるアニメのお山のようになるんですよぉ〜
(今度は桜の季節に来たいなぁ…)

ぱいんは、南朝には興味はあるのですが、
勉強不足のため、その歴史をほとんど知らなくて、
今回の紀行は、現地で見た立て看板やパンフレットを見て作成致しました。
お見苦しい点はどうぞご勘弁を〜<(_ _)>

というわけで
=今度こそ本当に


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