光孝天皇(こうこうてんのう)

「月桜」(管理人:葉つき みかん 様)のフリー画像をいただきました。
葉つき様のサイトは、CGの美しさもさることながら、人物やその時代背景などの説明が詳細で、
より一段と、描かれている絵の世界に入り込めます。
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☆☆ 以下の説明は、葉つきみかん様のサイトからの引用です ☆☆
(説明文は葉つきみかん様の許可を得て抜粋しております。詳しくは葉つき様のサイトをご覧下さいね♪)
小倉百人一首第十五番 光孝天皇
君がため 春の野に出でて若菜つむ 我が衣手に雪は降りつつ
【通釈】あなたのために、早春の春の野に出て、若菜を摘んでいる私の袖に、雪が次々に降りかかってきます。
| 【解説】詞書は、「仁和のみかど、みこにおはしましける時に、人に若菜たまひける御うた」 (光孝天皇がまだ親王でいらっしゃった時に、人に若菜をお贈りになった時の歌) ですので、光孝天皇が即位前に詠まれたものです。 人は、男性か女性かはっきりしません。 けれども、相手の健康を祈るという濃やかな愛情にあふれた、優しい調べの歌です。 この歌を贈られた人は幸せな気持ちになった事でしょう。 |
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【略歴】 天長七(830)〜仁和三(887)年、享年58歳。通称は、仁和の帝、小松の帝。諱は時康。 仁明天皇の第三皇子。母は贈太政大臣 藤原総継女、沢子。藤原基経の母である、藤原乙春と姉妹。
承和十三年(846)、17歳の時に、親王の中の位である四品に叙される。 同十五年(848)、19歳で常陸守(親王が守に任命される国です。)。 嘉祥三年(850)、21歳、中務卿。 仁寿三年(853)、24歳で三品。 貞観六年(864)、35歳で上野守。 同八年(866)、37歳で大宰帥。 同十二年(870)、41歳、二品。 |
同十八年(876)、47歳、式部卿と、皇族における昇進コースを順調に辿り、皇位に縁のない、典型的な古皇子の生涯をたどるかに思えましたが、元慶元年(877)、48歳で辞職を請います。彼の心の中に一体どんな変化があったのでしょうか。このまま政治の世界から身を引いて、一生を風雅の世界に生きようと思ったのか、それとも死ぬ前に一花咲かそうと思ったのでしょうか。
彼の辞職は認められず、同六年(882)、53歳で一品に叙せられます。
55歳で大きな転機が訪れます。同八年(884)、55歳で、陽成天皇の譲位を受けて、従兄弟であった事で昔から親交が深かった藤原基経の強い後押しを受けて、即位。太政大臣である藤原基経を実質的な関白に任じました。この時から、天皇家と摂関家の蜜月が始まったと「大鏡」作者はとらえています。
仁和三年(887)年、58歳で重病に伏し、基経に命じて、第七皇子、源定省を親王に復し、立太子させ、翌日に崩御しました。
『日本三代実録』によれば、「少ニシテ聡明、好ンデ経史ヲ好ミ、容止閑雅、謙恭和潤、慈仁寛曠(幼い時からかしこく、好んで経書・歴史書を読み、身のこなしが静かで雅やかであった。慎み深く穏やかで、ゆとりがある態度であった。)」と評され、上にも述べたように、幼少から従兄弟の藤原基経と親しく、基経も「何事につけても明敏な方だな・・」と思っていたそうです。
また、僧正遍照と親交があり、遍照の七十の賀に、「かくしつつとにもかくにも永らへて君がやちよにあふよしもがな(古今347)」の歌を贈りました。後世、後鳥羽院は、この故事にならって、釈阿(藤原俊成)の九十の賀を祝ったそうです。
『徒然草』第176段で、清涼殿の北の黒戸は、光孝天皇が臣下の時、煮炊きなどの汚れ仕事をなさった所で、薪ですすけているため、そう呼ばれる、と書かれていますが、いくらなんでも親王がお料理をなさったことはないでしょう。でも、表題の歌を読むと、「そんなこともあったかも・・」なんて思わせられます。
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こうした詳細な説明があれば、光孝天皇の人となりが、そこはかとなく分かってきて、お歌にもより深みが感じられますね。
この引用は抜粋ですので、葉つき様のサイトでは、より詳細な説明が見られます。
他にも美しいCGなど、満載です!!(^o^)丿