黄泉国(よみのくに)
「おまえが愛しいと思うからやってきたのだ。」
走り去ろうとする人影に向かって、私はそう叫んだ。
私は、イザナミを取り戻したかった。
だから、遥か遠く黄泉国(よみのくに)まで、妻を追ってきたのだ。

振り向いた人影は、見まごうことなく、わが妻、イザナミだった。
イザナミは、悲しそうに目を伏せて、
「わが君さま、どうしてこんな遠くまでいらっしゃったの?」
と言った。
「どうして私たちが別れなければならない?
 私たちは、この国の島々も、神々も、万物も生み出したんだぞ。
 死を司る黄泉神(よもつかみ)だって、
 私たちを引き離すことなどできるもんか。」
だだっ子のように言い募る私を、
妻は生前のように優しい目で見つめながら、
「もう遅いわ、わが君さま。
 私は、もう、黄泉之竈国(よもつのへぐ い)を食べてしまったの。
 もう戻ることはできないわ。」
「どうしてそんなふうに諦められる?
 お前は私と離れて…もう二度と会うこともなく、生きていけるのか?」
なんということを言ってしまったんだろう。
私と離れては、生きていけないのは妻の方だったのに。

だが気丈にも、キッと私を見ながらイザナミは言った。
「もう眠いの、わが君さま。
 私は休みます。
 もう、私のことは決してご覧にならないで。
 帰って!」
イザナミがその言葉を言い終わると、たちまちその姿は見えなくなり、
あたりは真っ暗闇になった。

わが愛しい妻よ。逝ってしまうのか?
私はうろたえた。
愛しい妻が、なぜ私を拒んだのか、その意味を察せられないほどに。
私は、今一度妻の姿を求め、
妻の懇願にもかかわらず、
湯津爪櫛(ゆつつまぐし)の歯をひきかいて、火をつけ、
秉炬(たひ)として、イザナミの姿を 探した。

なんといことだ・・・
私は目を疑った。
さっきまで、生きていた頃と変わらず、瑞々しく美しかった妻の体は、
化膿し、ふくれあがり、からだのそこかしこに蛆虫がたかっていた。

私は、生と死を分かつということがどういうことなのか分かっていなかったのだ。
「私は思わず汚穢き(きたなき)国に来てしまった。」
そうつぶやくと、もと来た道を逃げ帰った。
「どうして私の言葉を聞き入れてはくれず、私に恥をかかせたの?」
イザナミの声が聞こえた。

「わが君さま。
 あなたは私を愛しいと仰せになり、
 こんな遠い黄泉国(よみのくに)まで、私を追ってこられた。
 そして、私があんなにお願いしたのに、
 私の本当の姿をご覧になってしまわれた。
 あなたは、もう生と死の境を越えてしまわれたのです。
 もう私たちを分かつものはないわ。
 再び、夫として、妻としてともに生きていきましょう。」
声までもが、次第に、しゃがれ・・・
イザナミは、はや黄泉国(よみのくに)の住人でしかなかった。

私は死の穢れが触れるのを恐れ、さらに走った。
夢中で走った、愛しい妻イザナミから少しでも離れるために。

イザナミは、黄津醜女(よもつしこめ)八人をして、
私を追わせ、ひきとめようとした。

私は剣を抜いて、後手に振り払いながら逃げた。
逃げながら、黒い鬘(かずら)を引き抜き、醜女たちに投げつけた。
鬘(かずら)は葡萄の実となり、醜女たちはそれを拾って食べる。
だが、食べ終わるとまた追いかけてくる。
あまりのおぞましさに、今度は湯津爪櫛(ゆつつまぐし)を投げつけた。
湯津爪櫛(ゆつつまぐし)は筍となり、醜女たちはまたそれを拾って食べる。
そして食べ終わると、また追いかけてくる。

「イザナミよ、どうしてこんな醜女たちに私を追わせる?
 どうして、おまえ自身が追ってこないのか?」
私は、黄津平坂(よもつひらさか)に着いていた。
黄泉国(よみのくに)とこの世の分かれ目だ。
今度こそ、私はイザナミに別れを告げなくてはならない。

私はついに、イザナミに向かって絶妻之誓 (ことど)を告げた。
イザナミは、
「愛しいわが君さま。
 そんなことをおっしゃるなら、私はあなたの治める国の民を、
 一日に千人縊り殺しますよ。」と言った。
「愛しい妻よ。
 それなら私は一日に千五百人生ませよう。」
私は答えた。

「そこからはこっちへ来るな。」
叫ぶと、私は杖を投げた。
帯を投げた。
着物を投げた。
褌を投げた。
履物を投げた。

そしてほうほうのていで帰り着いた。
私とイザナミは、黄津平坂(よもつひらさか)を境に、
互いに去っていった。



み そ ぎ
あ〜れ〜〜〜
もう…びっくりしちゃった。
誰かと思ったらお父さまじゃないの。
向こうから素っ裸の男の人が血相変えて走ってくるから、
てっきり変質者かと思っちゃったわよ。

覚えてくれてる?
私、「アマテラス登場」のときの草野姫です。

そうだったわね。
お母さまが亡くなったという悲しい知らせは私のところにも届いてた。
「はじめ、妻のことを悲しみ、偲んだことは、私が弱かったのだ。」
お母さまと黄津平坂(よもつひらさか)で別れを告げたとき、
お父さまはそうおっしゃったそうだけど、ホントにそうかしら。

妻や夫を亡くしたとき、
悲しみ、偲ぶことは、とっても自然なことだけど、
もし、お父さまに非があるとしたら、
お母さまを想うあまり、生と死の境を越えてしまったことじゃないかしら。
死が美しいものだなんて、
ヒトの中には思っている者もいるそうだけど、
死が本当はどんなものなのか、これできっと分かったわね。

ああ、こんなことを言ってる場合じゃないわ。
ともあれ、お父さまの穢れをすすぎはらわなくっちゃ!

私たちは、粟門(鳴門海峡)と速吸名門(豊予海峡)を見たけど、
ここはダメね。潮の流れが早すぎるわ。
それから、私たちは橘の小門(日向)に向かって、
ここでお父さまは、穢れをすすぎはらったの。
このときも、お父さまはたくさんの神々を生まれたわ。
で、すべての役目を終え、幽宮(かくれのみや)に入ってしまわれたの。

ウゥ…淋しいよ〜(>_<)

って、ファザコンの私としては、もう少しお父様の死を悼んでいたかったのだけど、
またまた、大事件勃発!
いったい、うちの家族はどうなってんだぁ?

私の妹と弟であるアマテラスとツクヨミ←(月読尊(つくよみのみこと)のことよ)が、
光り輝くように美しかったので、
お父さまの命令で、天界を治めることになったのは知ってるよね。
(「アマテラス登場」の章を参照)

あるとき、アマテラスがツクヨミに、
「葦原中国に保食神(うけものかみ)がいると聞いている。
 お前、行ってみてまいれ。」
と言ったそうなの。
で、まあ、ツクヨミは、
また地上に戻って保食神(うけものかみ)のところに行ったのだけど、
この保食神(うけものかみ)というのが・・・

まず、首を陸の方に向けると、口から飯が出てきて、
首を海のほうに向けると、
口から、鰭(はた)の広もの、鰭の狭(さ)きものが出てきて、
首を山のほうに向けると、
口から、毛の麁(あら)もの、毛の柔(にご)ものが出てきたというの。
もちろん、遠く天界からやってきたツクヨミにご馳走するためよ。

でもね、ツクヨミは顔を真っ赤にして怒って、
「なんとけがらわしい、またいやしいことだ!
 このおれを馳走するのに、どうして口から吐き出したものなど使えようか!」
って言って、剣を抜いて、保食神(うけものかみ)を殺してしまったの。
ちょっぴり、その気持ち、分からないでもないけどね〜

ツクヨミにしたって、自分が悪い事をしたなんて全然思ってないから、
天界に戻って、そのことをアマテラスに報告したわ。
でも、その報告を聞いたアマテラスはカンカンになっちゃって、
「お前は悪い神だ。もうお前には会いたくない!」
って言ったの。

でもって、アマテラスとツクヨミは、一日一夜だけ隔てて離れて住むことになって、
それで、天には、太陽がいるときと、月がいるときがあるってわけ。
もう仲良く、並んで天にいる太陽と月を見ることは出来ないわ。
ツクヨミも、大変なことをしでかしたものよ。

その後、アマテラスは天熊人(あまのくまひと)を、
保食神(うけものかみ)の看護のために遣わしたけど、
天熊人(あまのくまひと)が到着したときには、
すでに、保食神(うけものかみ)は死んでしまっていたの。
保食神(うけものかみ)の亡骸の、
頭には馬と牛が化(な)りいでていて、額には粟が生まれていたわ。
眉の上には蚕が生まれ、目の中には稗が生まれていた。
腹の中には稲、陰部には麦と大小豆。

天熊人(あまのくまひと)は、このことをアマテラスに報告して、
これらのものをことごとく持参してアマテラスに献上したの。
天熊人(あまのくまひと)は、律儀な忠義者だもんね〜
めっちゃ、重かったと思うわよ。

でもまあ、その甲斐あって、アマテラスは大喜びで、
「これは顕見(うつ)しき蒼生(あおひとくさ)が食べて生活するために必要なものである。」
と言って、
粟・稗・麦・豆を畠の種として、稲を水田の種としたそうよ。
その稲種を天狭田(あまのさなだ)と長田(ながた)に植えたら、
秋には稲の穂がたわむほど成長して、気持ちのいいことったら!

蚕はどうするのかなぁ…?と思って見ていたら、
アマテラスがいきなり口の中に入れたの。
なるほど食べるのね!
と思ったら、なんと、口から糸を抽(ひ)き出したの。
その糸で衣を織ると、すばらしく美しい衣が出来たわ。
わが妹ながら、アマテラスって天才♪
あれで、あのヒステリーさえ治してくれたらもっといいんだけどね〜

ともあれ、保食神(うけものかみ)さん、ごめんなさい。
わが弟、ツクヨミがとんでもないことしちゃって、
ご冥福をお祈りします。(合掌)

なんて、感傷にふけっていたら、
「あ〜れ〜〜・・・・・・・」
耳がつぶれそうな大声。
何かと思ったら、アマテラスの声ではないの。
また事件?
ホントにもう、うちの家族ったら!
( 続  く )

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